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電子化の先例実は日本ではとっくに普及してた電子出版~発想の転換

発想の転換というのは非常に重要であると思う。これは筆者が最近傾倒している禅の思想にも通じるのだが、人間はともすれば自身のルーチン化あるいはマンネリ化した社会生活の中で、知らず知らずの内に固定観念に支配され、そのことに全く気づかないでいるということがよくある。本書の目的は電子出版についての筆者の体験談の共有と市場全体のちょっとした啓蒙貢献であるので、脱線と思われるのを承知で少しこのことについてまず触れたい。

例えば英語である。筆者は10歳の頃に友人の母から当時の親友3人ほどと少人数レッスンを受けたのを皮切りに英語を学び始めた。それから有名なアカデミー出版の「家出のドリッピー」などの教材や、マーク・ピーターセンによる「日本人の英語」シリーズなどに代表されるような日本人の英語学習に関しての本を読み漁った。特別英語が好きというわけではなかったが、当時は外交官や国連での勤務を志望していただけに英語を避けては通れないという気持ちが強かった。(同時にタイピングの重要性も感じて中学を卒業する際に母からワープロを買ってもらって本格的なタイプの勉強ができるようになったことにも心から感謝している。

文章を書くのは好きだが、あまりにも字が汚い私にはワープロはまさに竜が水を得るごとくのツールであったのだ)それから高校も大阪府に当時初めて設置された「国際教養科」という特別なカリキュラムの学校に入学した。(この特別なカリキュラムは府下では千里と住吉の二校でまず試験的に導入され後に拡大したのだが、筆者が行ったのは後者)その後アメリカに留学し、UCLAという大学を卒業してからビジネスを続けるにいたるまでずっと英語を使い続けている。もちろん英語での会話には不自由はしないし、2000年の帰国時に初めて受験したTOEICでも970点という自分でも信じられないような高得点を得た。 (おかげで二度と受けることはなかった。スコアが下がる可能性の方が高いし。ちなみに同時に受けた英検1級は不合格だった)

そんな筆者から見ても英語は本当に難しい言語であるという思いが強い。これに追い討ちをかけるのが、日本人ならほぼ誰でもがもっている一つの壁である。それが「ペラペラ」というやつだ。筆者の周りには英語を自在に操りビジネスでも日常生活でもほぼ不自由しない人物が両手では足りないほどいる。しかし、彼らに対して「あなたは自分で英語がペラペラだと思いますか?」と聞いたらほとんどの人物は「NO」というだろう。傍から見ると、どう考えても「ペラペラ」なのに、何故か?答えは簡単である。「ペラペラ」という言葉に定義がなく、本当にこの言葉自体が薄っぺらい「ペラペラ」な言葉だからだ。だから英語を勉強する際には「ペラペラに話せるようになりたい」などとは思わずに、具体的な目標をもつことだ。それがTOEICでもいい、発音に対してでもいい、好きな分野について語れるだけの知識を得ることでも話せることでもいい。あと、ついでに一つだけアドバイスすると「発音」の勉強に注力したほうがいい、もっと理論的に、である。筆者は英語を話す際にネイティブと非ネイティブの間にある決定的な違いはスピードと発音だと思っている。

ちなみに大事なことなのだが、ここでの発音という意味は「アクセント」ではない。
日本的なアクセントが残ってしまうのはむしろ日本人的でいいと私は思っている。しかし、通じないことの大半はアクセントではなく、「発音が間違っている」という事実であることに気づくべきだ。また発音は舌の位置や口の開き方による「相対的」なものであることが多く、それぞれの音には相関関係がある。これらが一定していればアクセントが多少強くても英語は十分に通じるのである。(聞いている者の耳が慣れるのにしばらくかかるかも知れないが)これと似たようなモノにゴルフで初心者を悩ませる俗にいう「100の壁」というのがある。あまりにゴールを意識するあまりに自分で壁をつくってしまうというやつだ。また少し違って例になるが逆の影響がでているのが「関西人バイリンガル説」と筆者が名づけた現象である。これは、(実は関西人に限定されることではないのだが、関西人が標準語を話すのが苦手だということから、これがもっとも強いと思っている)関西人はテレビのニュースや読み書き上では標準語を完全に理解しながら、それらを話し言葉にまったく影響させないということ自体が、一種のバイリンガルだ、というものだ。半分冗談みたいな説だが、実は脳の切り替えという意味ではここで行われていることというのは、外国で生まれた日本人の子供たちとなんら変わるところがないのではないか。片親が外国人だったりした場合に、例えば子供に日本語で話しかけても返答が英語などの違う言葉だったりするのを耳にしたことがないだろうか。要はあれである。

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このルールの背景にはいくつかの事情が垣間見えるのだが、複数アカウントを保有することは当初はまったく何も問題ではなかった。パブリックドメインのコンテンツをアップすることはAmazonが警戒してくるだろうことは分かっていたし、最初は広い門戸もいずれ狭くなるだろうということを予想して当社では(前提条件である)銀行口座の数だけのアカウントを開設した。また当時複数の会社を経営していたのでそちらの口座も利用して一応口座だけは開いた。(結局今まで使えていないのだが)結果として前述したようなことから、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言わんばかりに見せしめのように該当しないコンテンツ(一時は「漢字」の著作権についての釈明を求められたことまであったのだ!)以外のコンテンツの出版も一応に差し押さえられて、その状態が長いときには数週間から数ヶ月続くのだからたまったものではない。

Amazonが出版社のアカウント別にフラグを立てて厳しく「お灸を据えている」のは疑う余地もなかった。(著作権については後ほどチェックザボックスシステムという自己申告制に移行したので少し緩やかになったのだが実質は何も変わっていない)複数アカウントを保有すること、いわゆるマルチアカウントはこういう問題で電子出版を主とする事業展開をしている電子出版社にとっては死活問題だったのである。そしてもう一つの問題が言語の問題であり、これは本当に痛かった。しばらくしたらフォントを増やすのでその時をお待ちください、というメッセージを受けたのが1月で、それから何の音沙汰もない。これらはもちろん迫り来るAppleのiPadに対しての対応策だったわけで、Amazonは一時期矢継ぎ早に対応策を講じてIRをどんどん更新していた。ずっと張り付いてチェックしている筆者もさすがに目をむくような意思決定のスピードだった。アメリカの上場会社は下手をすると日本の上場会社よりもはるかにコンプライアンスが厳しいので、よほどの意思統一がなされているのか、事前に周到に仕込まれているのか、あるいはその両方であることは短期間とは言え日本の上場会社の子会社を任されてJ-SOXの対応などを社内で検討したことがあるのでよく分かった。

この後も強硬な姿勢を崩さないAmazonとのトラブルは幾度となく続いたのだが、紙面の都合で割愛することにする。実際にやり取りを体験した身としては、Amazonがこうしたクレーム処理をする際に執っている匿名性のメールのやり取りが非常にずさんに見えてしまう。何しろやり取りをしている相手の名前も分からなければ、個別のメールアドレスが手に入るわけでもなく、また電話しようにもどこに電話したらいいのか解らない、といった具合である。

また一気に世界展開をしたKindle2(国際版)の時に期待して、まったく裏切られた事実の中にマーケティングデータの不透明性がある。誰に売れたかまでは分かる必要はないが、地域性とかどういう年齢だとか、といった簡単なデータくらいは出版社に与えて欲しいものだ。そうすることにより間違いなくコンテンツの質を向上させることにもつながるのだから。現状のシステムではどこの国の人間が買ったのかも分からないので、開いた口も塞がらない。アマゾンと出版交渉をしている大手出版社があったらその辺りを十分に注意するように忠告したい。そういうデータは全て巨大マーケティング会社のアマゾンが保有して彼らの良いように使われるのみだ。(もっとももともと書籍の場合も誰が買ったのか分からなかったので、構わないということであれば話は別だ。はい、そうですかという他ないであろう)そしてアマゾンは自身のみが無料で販売できるようなシステムを即刻排除し、本当に通信費を自前で負担しているのかどうかをもう少し透明にするべきだと声を大にしていいたい。

(これまでにLMDPがKindleStore上で出版したコンテンツのリストはコチラ

これ以外にも下記のようなコンテンツが出版可能である。

電子出版で作成可能なコンテンツ例
既存の出版物(一般書籍、文学書、新書、学術書、教科書、雑誌、絵本、児童書、教
材、写真集、アート本、ロマンス本など)
マンガ(メジャー/同人)
論文・学術関連の調査資料
古典、パブリックドメイン文学、ネット上のコンテンツの二次利用
エンタメ関連(歌詞・オリジナル字幕・脚本・脚注・映画原作)
掲示板、ウェブ連動コンテンツ、携帯小説
リアルタイムコンテンツ(ニュース、ゲームの必勝法、意識調査)
情報・資料・統計・辞書・地図・年表
パズルゲーム
言語学習、資格取得、テスト対策
ゲームブック、ファンタジー系
ニュース、個人および商業ブログ
アート関連(作品集、イラスト集、ポートフォリオ、写真集)
自費出版
アナログ物のアーカイブ化出版

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さて、方針が見えれば後は技術的な検証である。このために、我々はKindleを新旧合わせて3台購入している。もちろん後ほど発売されて大画面が話題を呼んだKindleDXも購入してテストした。Kindleにはメールアドレスが付与されており、通信の従量制課金がかかるがPDFファイルが送信できるようになっている。あるいはUSBケーブルを接続してコンテンツを転送することが可能である。ここでは総力を挙げてフォーマティングの研究をして、日本語のコンテンツをどのように表示させるのが一番なのかを徹底的に調べた。その結果、JPEG と HTML を融合させる形で、フォーマットとしては比較的簡単に日本語のコンテンツをアップすることができるという結論にいたった。もちろんイメージはテキストに比べて重いので全体のファイルサイズは大きくなる。これが後にAmazonがAppleに対抗して印税率を引き上げようとしてきた際に行ったルール改訂の根拠となるものである。他の章でもふれたが、Kindle端末ではAmazonが3Gの回線量を負担することになっているが、Appleは(キャリア経由の)ユーザーの負担である。

ここで作成したのが「ひらがなフラッシュカード」と「カタカナフラッシュカード」である。これらはちなみに未だに売れ続けており、最高でKindle Storeのランキングで40万タイトル(当時)の中で上位1%に食い込んだこともある。パブリックドメインものも何故かそれなりに売れた(当時日本語のコンテンツは珍しかったからだろう)のだが、やはりこれらのフラッシュカードが当社のオリジナル作品ということで、小さな成功ながらも筆者はうれしく思っていた。それはシステムさえ構築されれば、将来は約束されたようなものだと思ったからだ。それくらい電子出版事業というのは論理上は「掛け算」で動く世界だと分析したわけである。このシリーズでは後に「小学校漢字シリーズ」を作成するに至った。小学校1年~6年生までの漢字をそれぞれ学年別に分けてフラッシュカードにしたのだ。表と裏のフラッシュカードにするというのは私のアイデアだった。その次にも百人一首シリーズやタトゥー向けの漢字シリーズなどを出版して、3ヶ月くらいすると売り上げも飛躍的に伸び始めた。表紙のデザインが既存の紙出版と同様にそれなりに重要だということにも気づいたし、作品集をつくって大量の数を出せば、作品の知名度とは関係なく、第1作が最初に売れていくということも分かった。これはいける、という確信を持ち始めたのはそのころだった。

しかしここで問題が発生する。アマゾンは革新的なように見えてその実非常に保守的な会社であることが今回の一連の電子出版を通じてのトラブルでよく分かったのだが、その最初のバッドニュースである。まずパブリックドメインのコンテンツの著作権についての開示を求められたのである。それまでコンテンツは出版差し止めだという。この時問題になったのが日本を代表する女性詩人、与謝野晶子の作品群だった。(ちなみに当社はこの時数百に及ぶパブリックドメインのコンテンツを準備中だったので、これは寝耳に水だった)もちろん実際にはアマゾンが要求してくる内容を一つ一つ丁寧に対応していけば問題は解決されることが多い。この時もネットから情報を引っ張り出してきて、英訳したりなどしながら著者の死後50年以上が過ぎており、肖像権などの問題はさておき、著作権としてはなんら問題が発生しないということを伝えた。しばらくしてから、許可する内容の通知があり、一部のコンテンツは無事に出版されたのだが、いくつかは何故か出版されずに未だにコンテンツと売り上げを管理するプラットフォームであるAmazonDTPの画面上でPending(保留中)になったままである。

(AmazonDTPの画像 割愛)

この問題が発生した時が最初の挫折だった。実際これで少し出鼻を挫かれた我々は2ヶ月ほど新タイトルを導入しなかった。そして、その間も日本語のコンテンツよりは英語圏向けに作られた「日本語学習用」コンテンツの方が順調に売れていた。もちろん市場がそちらのほうが大きいので当然の帰結であった。

この次に筆者が目をつけたのが日本語の昔話集であった。このあたり、アイデアはネットを検索すればいくらでも落ちている。私にとって電子出版事業はまさにゴミを宝に変える廃品回収あるいは資源再生事業のようなものだったのである。これには当社が翻訳会社であったことも幸いしたし、もともとオンラインゲームのローカライズをやっている際に培ったデジタル翻訳のノウハウが活かされた。(もちろん元を返せば、社内にあるリソースを有効活用するためにということで電子出版事業に行き当たったのだから当然なのだが)これによって投入されたのが「桃太郎」と「浦島太郎」の二作品で、後に「鶴の恩返し」が追加される。これらにはコンテンツ上の工夫がされており、それぞれの作品には「英語」、「ひらがなのみ」、「漢字交じりの日本語」の3つの異なるバージョンが収録されている。

と、ここまでは一見順風満帆に進んでいるかのようだった。売り上げも対前月比で数倍に膨らむこともあり、コンテンツを極力コストをかけない形で提供して数を増やしていけば認知度もあがり、後は売り上げが膨らむのをまっていれば、各月の末日から45日~60日ほどで入ってくる入金を楽しみにしていればよい。しかも相手は超一流の上場企業なので取りっぱぐれるなんてあり得ない。そう思っていた私は新たな挫折に直面することになる。それがアマゾンの一連のルール改訂騒動である。詳しくは「意力ブログ」に散々書いたので、そちらを見ていただければと思うのだが、アマゾンは英語に加えてフランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語という欧米言語を追加していった際にいくつかの主要なルール改訂を行ったのだが、これらの一つが私の事業の裏目にでることだったのだ。アマゾンはこの際に下記のようなルール変更を一緒に行った。後に物議を醸したのは「印税率アップに伴うアマゾンルールの遵守」ルールだったが、もとからISBNがついたコンテンツを保有しない私にとっては下記の二つのルールのほうがよほど致命的だった。それは、1)複数アカウントを保有している場合は一つに統一すること、そして2)対応フォント以外の言語のコンテンツのアップロードは認めないとしたことだった。(続く)

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アメリカでKindleが注目され始めて、電子出版に関してまずは個人的に具体的なリサーチを開始して方針策定に時間を費やした。それから実際に筆者が運営するLMDPがKindle Storeでコンテンツを売り始めたは2009年の6月からだった。それからもうすぐ1年が経とうとしている(注:執筆時点)が、電子出版を取り巻く趨勢は一変したと言っていい。その間Kindle Storeでは当社のコンテンツが並び続け、少しずつではあるが売れ続けた。この章では実際に何が行われ、アマゾンとどういうやり取りが行われたのかという筆者なりの「激闘」の様子の一部をお伝えしたいと思う。

まずKindle Storeではインディーズ出版社でも(ISBNをもたない)オリジナルの電子出版コンテンツが発売できることに気づいた私は、何を売るのが短・中・長期それぞれの期間において有益かということを徹底的に試行錯誤した。その末に行き着いた結論はオリジナルコンテンツを作ることと、日本語のパブリックドメインの文学作品を販売することだった。目的はKindle Storeで販売しうるコンテンツの「質と数量」を見極めたかったからだ。古典文学作品の中では、筆者が敬愛する芥川龍之介と夏目漱石にまずは比重を置いた。そして、後に女性文学者を追加しようということで与謝野晶子作品に手をつけた。(後にアマゾンとのトラブルが発生して、一部の与謝野作品は結局アップしたのにも関わらずアマゾン側の「検閲」を通過せず未だに陽の目を浴びていない)そして、オリジナルのコンテンツについてはとっかかりで作りやすいものということで、日本語学習コンテンツを提供することを思いついた。筆者にとって気がかりだったのはアマゾンの返品のルールであり、レビューのシステムだった。

あまりにつまらない作品を世に出しても、とんでもない評価を最初につけられてしまうと元も子もなく、次に続かない。実際に一番最初に考え出したコンテンツは当社のデザイナーが突発的に作り上げた「ひらがな・カタカナ表」だったが後に酷評されてしまい、それからの売り上げは大きく伸びなかった。(しかし価格が安かったので最初の頃はそれでも当社の他の作品よりも売れていたくらいだ)学習コンテンツであれば1週間はキープするだろうと考えた。そして、やるからには自分がクオリティを保証できるものがいいということで、まずは初級者用の日本語学習コンテンツをつくろうとあいなったわけだ。

しかしここでは大きな前提条件があった。日本語のコンテンツが出版できること。ということである。ここで、筆者はアマゾンの規約を詳しく読んでみたがそこにはどこにも出版コンテンツに対して言語を規制するような記述はなかった。(後にこの方針は変更されることになる)AppleのApp Storeの例を見ても明らかだが、このような新規のB2Cのプラットフォーム上においては、ユーザーを獲得すると同時にコンテンツを潤沢に提供してくれるサードパーティ(この場合は出版社、App Storeの場合はデベロッパー)の存在が不可欠だ。筆者はアマゾンはここをもちろん理解していて、サードパーティが儲けられるような仕組みを構築することでKindle Storeを盛り上げKindleの売り上げを増やすことを考えているに違いないと踏んだ。 読みは当たるのか? 続きはコチラ

オンラインゲームの課金は大別してサブスクリプションと呼ばれる定額制課金モデルと、アバターやアイテムの購入などでちょっとずつ課金が成されるマイクロトランザクションモデルと呼ばれるモデルの二つに分かれる。通常のMMORPGではまずユーザーはゲームソフトを小売店あるいはオンラインで買い求め、それを自身のマシンにインストールする。時には数GB というような莫大なサイズになるソフトは「ゲームクライアント」と呼ばれ、これをインストールした後にインターネットを通じてデータがアップデートされる。ユーザーは月に数十ドル(あるいは数千円)という金額を支払い、自身のアカウントを維持する。時にはゲームを有利に進めるため、あるいはより楽しみたいために複数のアカウントを所持する者もいるほどだ。しかしである、このモデルはシリアスゲーマーとう限られたパイを狙った過当競争により現在非常に成立しがたくなってきている。ここには人間にとっての普遍的な二つの制約要素の存在がある。それは時間と場所、である。実際にはこれに予算という相対的な三つ目の制約要素が加わり、消費者はこれらの許す範囲内でゲームをプレイすることになる。では実際に市場で何が起こったのだろうか。

実はシリアスゲームの市場を脅かしたのは、同じシリアスゲーム内の競合作品ばかりではなく、カジュアルゲームの台頭だったのである。これは先ほど述べた三つの制約条件を考えた際にカジュアルゲームのほうが遥かに有利だったからである。下記にカジュアルゲームの利点を簡単に述べてみよう。

<カジュアルゲームの利点>
iPhoneやiPodTouch、あるいは低スペックのコンピュータでも動く敷居の低さ
時間と場所を選ばずに携帯端末からプレイできること
ゲーム単価が非常に安い
マイクロ課金のほうが必要に応じて支払えるため固定費削減につながる
多くのゲームを並行して自分のペースで進めることが可能

これに対してMMORPGやFPSはシリアスにプレイしようとするとどうしてもチームでのプレイが必要となってくるので、ゲームというよりはリアルのサバイバルゲームに近い状態になってくる。大きな違いはみんなが集合する場所が現実の地図上の場所ではなく、バーチャルリアリティの世界であるということだけだ。チームプレイをするからにはメンバーが必要で、必然的に同じメンバーが毎日決まった時間に示し合わせてプレイするなどということが恒常的に行われるようになる。これは敷居が高いし、先行者利益が発生することも多いので後から参加する者にとっての心理障壁はどんどん高くなる。またチームでプレイすることから、チーム単位でゲームを乗り換えるということも頻繁に発生しており、ゲームパブリッシャーはゲームを楽しく導いてくれて活気をもたらしてくれる熱心なゲーマーを囲い込むのに躍起になっている。そのため宣伝にかかる費用もハリウッド映画並みの規模になってくるのだが、実際にどれだけのタイトルがコストを回収できたのかというと、恐らく片手で足りるほどしかないのではないだろうか。

そもそもゲームを取り巻く環境はこの20年間で本当に大きく様変わりしており、過去の常識が現在に通用しなくなることが多い。別の言い方をすればそれだけゲーマーという存在が流行に敏感であるということだから、ゲーム業界にいる者は必然的に顧客であるゲーマーの心理を理解することに血道を注いでいる。つまり、ゲーム業界にいる者の多くはゲーマーだということであり、これには経営陣とて例外ではない。実際に全社でゲームプレイを行うイベントなどを開催している会社も多い。こういう活動を通じて社内のビジョンを統一して、興奮を共有するのである。正しくこれらが実践されると経営者と最前線にいる開発者やQC(品質管理)、CS(顧客サポート)担当との間の心理的軋轢も少なくなるだろうことは容易に想像できる。では、出版業界においてこれは同じように機能しているだろうか。少なくとも電子出版において現時点で機能しているとは到底思えない。つまりそれだけ、日本の電子出版市場においてキャスティングボードを握っている人たちと市場の生の声の間に開きがあるということだ。それでは正しくビジネスが成り立つ訳がないことは子供にでも分かることだ、というかむしろ素直で流行に敏感な子供たちのほうが正しくビジネスを理解できるような時代になってきているのかも知れない。 続きはコチラ

筆者はオンラインゲームという市場が電子出版市場の動向を分析する上で非常に大きなポイントになるという認識をもっている。これはオンラインゲーム市場は高性能コンピュータというハードとゲームというソフトが課金というプラットフォームを巡って、インターネットという共通インフラ上で戦う激戦場だからである。幸い筆者はこのオンラインゲーム市場において、さくらインターネットの米国法人代表としての立場からオンラインゲームのローカライズ作業という分野を通じて当事者として観察することができた。ではこのオンラインゲーム市場ではこれまでに何が起こり、現在競争はどういう原理のもとに起こっているのかを簡単にまとめてみよう。

オンラインゲームは2000年代の初頭にネットインフラの普及と向上により急速に世界に浸透したカテゴリで、その中身は前述したようなMMORPGやFPS、あるいはRTS(Real Time Strategy)という俗にシリアスゲームと呼ばれるハードコアゲーマー向けゲームのジャンルと、より初心者向けのカジュアルゲームと呼ばれるカテゴリがある。(ちなみにこのカジュアルゲームという名称は「クラウドコンピューティング」と同じように、定義が非常に曖昧な言葉であり、時には意図的に商業操作をされやすい言葉である)オンラインゲームのブームの最初は前者に勢いがあったが、最近ではカジュアルゲーム側にかなり勢いがあるように思う。例えば筆者は家族と一緒によく近郊のショッピングモールにある Apple Store を訪れるのだが、ここでは多くの人々が展示されている iPhone や iPad、あるいは Mac Book といった端末に群がってゲームをしており、これらの多くが App Store 経由で事前にインストールされているカジュアルゲームの類であり、我が家の子どもたちもよく夢中になっている。これはとりもなおさずカジュアルゲームが女性や子供にもやさしい万人向けであるという点であり、iPhoneというコンソール機に比べるとはるかにスペックが低い筐体でも動くゲームであるという点である。

現在市場には主にFlashで動くカジュアルゲームがウェブサイトやSNSに始まり、ネット上のあちこちで見られる。カジュアルゲームがMMORPGのようなゲームを凌駕したもう一つの理由がフレキシブルな課金メカニズムである。大抵のシリアスゲームはその開発に膨大な予算がかかっている。世界で最も成功したMMORPGというと誰しもが思いつくのはブリザード社(現在のActiVision)の World of Warcraft (略称WoW)だと思うが、これらのゲームには数十億円というそれこそハリウッド映画に匹敵する予算が注ぎ込まれている。筆者も複数の開発会社の製作現場のかなり内部まで観察したことがあるが、映像や音楽、ストリーテリングを駆使するこれらの作品は本当に映画のそれと変わらない。だが、結果的にはこのMMORPGという市場は現在あまり主流ではないし、成功例も世界的にはあまり多くない。それは製作と運営に関わるコストがあまりにも莫大であり、それを回収するために必要な課金モデルに柔軟性がないため競争に打ち勝てるのは最大手だけになるという現実があるからだ。「オンラインマーケティングではナンバーワンしか勝てない」という格言がこの市場でも非常に説得力を帯びたものとして聞こえてくる。ではこの課金システムについてもう少し説明してみよう。(続く)

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かつて大手CPUメーカー「インテル」の創業者であるゴードン・ムーア博士によって提唱された「ムーアの法則」で知られるCPUの急速成長によって支えられてきたIT業界とゲーム業界は密接な関わりがある。そして、ここに常に時代の先端を走る産業が大きく関わってくるが、それがアダルト産業である。インターネットというインフラを通じてこれら3つの業界はすでに熾烈な競争を続けてきて、昨日までの敗者が今日の勝者になるというような、まさに日進月歩の世界で揉まれてきた彼らはこの時代のビジネスを生きていくのに最も必要な要素の一つに「スピード」があることを決して疑わないだろう。つまり、裏を返すとこれらの産業の(そう遠くもない)過去と出方を伺えばこれから電子出版市場で起きてくるであろう事象も予測することができる可能性が大きいということだ。

ここで少し話はそれるが、筆者の分析についての見地を説明する上で、私が日本で初めて経験した社会人体験について少し触れさせていただく。筆者はアメリカの大学を卒業してからしばらくニューヨークでOPT (Optional Practical Training – 職業訓練) の期間を経て2000年の春に日本に帰国したのだが、郷里の大阪には筆者がそれまでに培った唯一のスキルといってもいい英語力を活かせる職場というのがあまり多くなかった。その後登録した人材バンクを経て記念すべき日本で(アルバイト以外での)最初の就職先となったのが、サードウェーブという秋葉系の自作PC用パーツショップを運営する会社だった。大阪は19歳まで筆者が生まれ育った土地であり、土地勘などの勝手はもちろんあったが社会人というのはこうも勝手が異なるものかと混乱することしきりだった。特にいわゆる帰国子女として日本に戻った際には就職活動中に、それが余計な偏見や本当ではない印象を与えているという実感があったが、もちろん私自身もアメリカの合理主義は自由な考え方に大きく影響を受けていたので、久しぶりに経験する日本の保守的な環境に自身を適応させることの難しさを感じながら生活を続けていた。

しかしこの最初の職場で本当に多くのものを得ることができたし、後に米国に帰ってくることができるようになったのもここの職場でできた人間関係によるものであるので、当時若い筆者を世話してくださった先輩や上司の皆さんには頭が上がらない。当時はまだインターネットもフレッツISDNが普及し始めていたところで、秋葉系という言葉も今ほどは認知されていなかった。しかしながら、この時代にはすでにビットバレーに代表される後の日本のIT系を支えるような人材が確実に育ちつつあったのである。この職場では購買職として貿易の仕事を学んだ後に、職場が閉鎖されて以後それぞれ新品と中古品を扱う別の店舗に移籍となり、それぞれの現場でかなりハードコアなメンバーに囲まれて研鑽の日々であった。この時に筆者の現在の知識を支える下地ができていたということはいうまでもないが、それ以外にもこの時にはすでに増殖中であった技術志向でよく言えば実力主義、悪く言えば「弱肉強食」的な論理がまかりとおる秋葉系の人たちについて学び接し方を覚えたというのが大きな収穫だった。その後転職したのは日本でも最大手にあたるPC周辺機器およびアクセサリーメーカーであるエレコムであったが、入社するまでにはすっかり周囲の目には自身がその「秋葉系」のカテゴリに属していたようだ。

話を元に戻そう。ムーアの法則は主にCPUのチップ性能についての理論であるが、コンピュータのスペックを作用する重要なチップの一つにグラフィックカード(あるいはビデオカードとも呼ばれる)のスペックがある。一般的にコンピュータ用語で「重要品」と呼ばれるのはCPU、マザーボード(基盤)、HDD(ハードディスク)といった代表的なパーツである。最近でこそ主流は省電力のCPUがもてはやされるようになってきたが、筆者が製造業に従事していた時はCPUではインテルとAMD、グラフィックカードではnVidiaとATIが熾烈なスペック向上合戦を繰り広げている時期だった。(もちろんこれは今でも続いている)

しかし消費者も徐々に事情が分かってくるようになり、新規にPC(マックでは自作が一般的ではないのでここではPCとするのが妥当だろう)を購入する際にはできるだけオーバースペックにならないように配慮するようになってきた。そうなるとメーカー側はできるだけ、スペックが過度ではないということを証明できる材料を準備するようになり、その売り込みに最適だったのがゲーム産業だった訳である。日本ではゲームというとコンソールと呼ばれる家庭用ゲーム機が主流であり、現在ではWiiやPS3、XBOX360がそれにあたるのは皆さんもご存知のとおりだ。これが欧米になるとPCゲームの比重が高くなり、特にアメリカにおいては実際に日常で起きている戦争についてのネガティブなイメージが少ないのか、それを支援するために敢えて支援的なムードを醸し出しているのか知れないが、FPS(FirstPersonShooter)という一人称視点型のシューティングゲームが盛んである。(かつてはカウンターストライクというのがその代表的な作品であったし、今ではコール・オブ・デューティやバトルフィールドなどが人気)

また部品のスペックが向上するとそこには必ず熱問題が発生するので冷却産業も大きな市場へと成長した。(筆者が後にアメリカに戻ることになった時も英語のKAMIKAZEと社名をもじってネーミングされた鎌風(カマカゼ)という独自のCPUクーラーを売り込むのがミッションだった。この時にいたサイズという会社は今では秋葉原系自作パーツメーカーの最大手の一つである)CPUにはソケットと呼ばれる独自のインターフェースがあり、ブランドによっても同ブランドのCPU世代間によってもこれが異なるため、常に研究開発を余儀なくされる。したがって製品寿命も非常に短い。アメリカで販売しようと思って下準備をしていたら、船便の貨物が到着する前に次のCPUがでて製品が陳腐化してしまったというような笑えない話が日常茶飯時の世界である。このただでさえ競争が激しい世界で、PCのスペックを恒常的にアップする必要があるためにパーツ業界から篤い支持を受けているのがこのFPSとMMORPG (Multi-Massive Online Role Playing Game)に代表されるオンラインゲームであった。 (続く)

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(注:この項はブクログがパブー(電子出版サービス)を開始する前に書かれたものです)

電子ブックに関するディスカッションで時折登場する話題の中にいわゆる「コレクター心理」というものがある。これは例えば本やマンガが本棚に並んでいること自体に満足感を感じるというものであり、またこれは時には他人に対する優越感であったりもする。本の時代は長く続いているので、もちろん古書の市場やビンテージマンガ、絶版本のコレクターなども存在するわけである。彼らの言い分としては、電子ブックだと「所有している」気がしない、というわけだ。もちろんいつまでこういう意見が一般的であり続けるかは分からないが、筆者も俗に言う「本の虫」として育っただけにこの心理はよく理解できる。

何を隠そう私も、誰かの家にお邪魔した際に本棚が見えるとすぐに中身が気になってついつい除いてしまう。本棚は大抵の読書家にとって自分のアイデンティティともいえるほどの意味をもつものだ。しかし、この一方、例えば都内のワンルームマンションに住んでいる、私の高校時代からの親友のように増え続けるマンガの蔵書に部屋のスペースがどんどん占有されていき、置き場に困っているという人も多いと思う。このことを考える度に筆者がいつも思い出すのがブクログというサービスだ。これはペーパーボーイという会社の家入さんという社長さんが独自にスタートされたサービスで、立ち上げは2004年。ブクログでは仮想本棚を作成して、そこに自分が過去に読んだ本を登録すると、アマゾンから画像を引っ張ってきて画面に表示される。その後、読後録やレビューを書くのだが、アフィリエイトやブログパーツの機能もあり筆者はかなり昔からこのサービスを地道に愛用している。誰かに見せるため、というでもなくほとんどは自分のためだ。

管理人のブクログ(非定期更新)

管理人のブクログ(非定期更新)

ご覧になられた方はApple のiBooks のプレゼンテーションを思い出されるかも知れないが、ブクログはこのサービスをずっと前からやっていた。同じような時期にアメリカには似たようなサービスがなかったので、私自身が(なんとなく名前が似ているので勝手に親近感をもっている)家入氏に連絡してアメリカでもスタートしませんか、という風に持ちかけようと思っていたくらいだ。日本では最近「本棚.ORG(http://hondana.org/)」などの類似サービスも始まっているので、画面くらいは見られた方は多いかもしれない。このようなインターフェースでもって実際に本をもっていなくても、コレクター心理を満たすことが可能になった。もちろん実際にどうしても紙でもっておきたいというものがあれば、それを止める理由は一切ない。要は使い分けが生じるだろうというだけのことだ。例えば先日角川ホールディングの代表角川暦彦氏が出版したクラウド時代と<クール革命>は同書が一般書店で販売されるまでの間インターネット上にて完全無料で公開されていたのは記憶に新しい。私も海外在住の身でありながら無料公開の恩恵にありつけたので読ませてもらったが、あまりの面白さに読み終わった後には逆に購入を決めてしまい結局日本出張の折に普通に書店で一部購入させて頂いた。DRMなどの議論が動画や音楽などに比べて書籍においてあまり意味をなさないのではないかと思われる理由の一つがこのようなコレクター心理であり、また本というメディアがこれまで一番デジタル化がしやすい媒体であったのに最も遅れてでてきたということであるのではなかろうか。

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4月10日付けの意力ブログのエントリーでiPhoneAppの評価システムの変更を伝えた。引用元はMacRumors.comである。
Appleについての情報をイチ早くキャッチして全世界のマックユーザーに配信している Macrumors.com は4月10日付けのエントリーAppleRemoves‘RateonDelete’forAppsiniPhone4でiPhoneAppのアプリ評価について大きな変更があったことを伝えた。
これは文字通りに、iPhoneApp を削除する際にポップアップ画面が出てきてユーザーに対してアプリの評価を促す機能のことである。

iPhoneのレーティング(今は無い)

iPhoneのレーティング(今は無い)

(記事の要約)

同システムはiPhone2.2OSからスタートしたもので、アプリを削除する際にユーザーに対して毎回評価を促していたものである。これについてはアプリの評価数を増やすという名目があったものの、削除しているということは気に入らなかった可能性が高いわけで、相対的に低めの評価をつけられることが多かったことがアプリ・デベロッパーの間では議論になっていた。次のOSiPhone4からはもう削除時にこのような評価を求められることがなくなる。

これは良い選択だと思う。筆者も現在執筆中の「電子ブック(出版)開国論」(注:本書のことだ笑)の中でこの評価システムについてはふれるつもりだった。現在iPhoneのAppは一時の任天堂DSのソフト群よりもはるかに多い数が市場に溢れており、競合ソフトに対して評価をわざと下げるように低い星をつけるような行為が蔓延しているようだ。これに伴いアプリアップデートの際のリリース・ノートに「競合がわざと低い評価を不当につけて妨害している云々」という書き込みが多く、辟易している消費者も多いと思う。それにしても大体ミシュランガイドじゃあるまいし五つ星の評価があれだけ前面に打ち出されているのは、再検討したほうがいいと思う。特にiPhone上では詳細なコメントなどを見ずに星数で判断する人が多いと思うのだが、例えば競合が最初に一つ星をいくつか入れてしまったらその平均値を後で上げるのは至難の技になってしまう。

下記に簡単な例と算数で証明してみよう。
最初に☆を2回つけられた場合に、それを残り10件のレビューで☆☆☆平均までもっていこうとすると、残りの8件で28の☆を得ないといけないので、残りの8件での平均は3.5となる。例えば競合がグルになって、最初に5回☆をつけたとしよう、目標値を☆☆☆とすると、最初の10件でそれを得るには残り5件で全て最高の☆☆☆☆☆を得なければならない。最初の20件では平均3.6点、最初の30件では3.4点得てやっと☆☆☆に到達である。

またこれには心理的な問題を誘発し、そちらの方がむしろたちが悪い。実際のダウンロード数が売れ筋ランキングで上位に入ってくるものくらいしか判別がつかないAppStoreにおいて、新製品のレビューで最初に☆の数が少ないのはそれだけで致命的である。多くの人はそういうアプリには敢えて手を出そうとしないからだ。また、試してみてももとから懐疑的なのでちょっとしたことですぐに削除して悪い評価をつけてしまうかも知れない。 続きはコチラ

オンラインマーケティングといえば、最近の流行はやはりツイッター(Twitter)であろう。後発の日本では世界に比べてまだまだユーザーが少ないものの、登録されているユーザーの数はついに一億人を超えたと発表され、つぶやき(Tweet)の数は日ごとに増大し続け、グーグル検索の結果にも大きな影響を与えている。筆者は大学時代に環境政策学を専攻したという背景もあり、次世代型社会は地球環境にも優しい「最適化社会」であるという持論をもっている。その観点からするとツイッターはネットという一見無限だがそうではないスペースに誰の目にも止まらず、発言自体にそれほど意味をもたない、つまり価値の低い「ゴミ」を排出し続けるツールに成り得る可能性が高いという認識をもっており、実は登場当初から良い印象をもっていなかった。

しばらく経った今でも最適化とは全く反対のコンセプトをもつ、「双方向に一方的」な情報伝達の場を供給し続けるこのサービスは長続きしないだろうと考えているのだが、2009年末頃からの急成長により、最近はそのオンラインマーケティング効果についてだけは認めるようになった。例えば筆者の本名である「立入勝義」を日本のグーグルで検索してみると日にもよるが11,000以上の検索結果が表示されるのだが、日本でツイッターが話題になるまではこの数字の半分くらいしかなかった。(ブログを書く頻度が増えたということももちろん影響していると思うが、そもそもそのブログへのアクセス数にすらツイッターは大きな影響を及ぼしているのだから認めない訳にはいかない)なので、自身のポリシーを少し曲げてマーケティング目的にと割り切ってツイッターをしばらくは活用させて頂いている次第である。

話したついでにもう一つだけツイッターのポイントを述べておこう。これは別に筆者独自の意見ではなく、オンラインマーケティングに通じたもの、あるいはツイッターのヘビーユーザーならすぐに気づくことだろうと思うのだが、ツイッターが立場的に代弁するのは一時もてはやされたWeb2.0という世界というよりはむしろその逆でWeb1.0、あるいはウェブ以前のマスメディアをどちらかというと立場的に代弁するものである。これはとりもなおさず、ツイッター上でフォロワーが多い人物のほとんどがテレビやラジオ、あるいは雑誌や新聞といった既存のマスメディアに登場する一般的に認知度が高い人物、つまり人気のある人物であるということだ。この相関性については否定しきれないほどのデータがあるのだが、下記にその一部を表にまとめる。(オバマ大統領などでもあったいわゆる「なりすまし」もこの類に分類する。これはそもそも本物かどうか判別がつかないという本質的な問題点をはらんでいるからだ)

ツイッターのフォロワー数ランキングの例(日本)
ツイッターのフォロワー数ランキングの例(世界)

ちなみに筆者はツイッターで新しい人気者が誕生しない、ということを言っているわけではない。可能性は低いものの、かつてマイスペースやYouTubeなどで誕生したような新しいスターが誕生する場合もある。(可能性が低いという理由は利用者の数が膨大なことと、視覚的要素に訴えかける前者2つとは異なり、ツイッターが文字だけであるために尚更埋もれやすいということがある)あるいはネットを活用することで、これまでよりも一気に知名度を上げていくという人物が出てくる可能性もある。例えばアゴラブックスという電子出版会社を立ち上げ独自のソーシャルメディア的な活動を始めている池田信夫氏と、佐々木俊尚氏などの仲間は非常にうまくオンラインメディアを活用したアピールをしている成功例だと言える。

ブログに始まるオンラインの情報発信ツールは電子出版、囲い込み用の会員制サイトなどと強く結びつき、またビジョンを共にする仲間と協力しあうことでネット上に協力なソーシャルメディアのネットワークを構築することができる。オンラインマーケティングを駆使したパーソナルブランディングに成功した者同士が提携するこのようなネットワークはいずれ既存のマスメディア勢力をも脅かすような存在と発展していくであろう。このような観点で電子出版の意義を理解している者は世界的にも非常に稀であると思うが、その理論に行き当たった者はどんどん実践している。先に述べたように、そもそも執筆という行為自体が作家単体(あるいは編集者との共同)で完結することが多いため、やろうと思えばすぐに実践できる。ブログやツイッターで発信された情報はネット上に伝播すると同時にグーグルという検索エンジン上に残り続けるので、徐々に繁殖していくのである。

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