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Playing for Change LA公演

少し前に告知したPlaying for Change LA公演に参加してきた。大人気で無料チケットは手に入らないと言われていたのだが、向かっている間に事情が変わったらしく、大学時代からの大親友でこのツアーにクルーとして参加しているヤス君がチケットを手配してくれた。行ってみるとVIPチケットで、二階席から鑑賞できたので感動したが、二階は人が少なかったので、後半は熱気を味わいたくて下に降りていった。

参加者数は400名くらい、と極端に多くはないが、ハリウッドの老舗ライブホールは熱気で一杯になった。
途中で、客席に板ハリウッドの某有名俳優がステージにあがると、ファンたちのみならず、パフォーマーも多いに盛り上がった。

iPhoneで撮ったので暗すぎて何も映っていないが、この革新的なプロジェクトのプロデューサーであるマーク・ジョンソンとのツーショットを掲載。インタビューをすることも決まった。現在執筆中のソーシャルメディア革命にぜひとも盛り込みたいと思っている。

プロデューサーのMark Johnsonと

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プレイング・フォー・チェンジ (Playing for Change) のプロデューサー マーク ジョンソンを直撃インタビュー

武内は日本では理系出身なのだが、アメリカに留学した時には訳あってまったく違う専攻になった。地理学部までは柳田と同じだったが、マイナーといわれる専門が違った。環境政策学を学んだ柳田に対して、どちらかというと人間嫌いの武内は生物地理を選択した。まだ二人が二十代だった当時、武内が何度も永住権を取ったらパークレンジャーになるんだと言っていたことを柳田は昨日のように覚えている。この武内にはまだまだウィキの世界の裏側が見えていないようだ。もちろんここまでの話は正論ばかりであるから、何も反駁する必要がないとは思うが。実際にウィキを取り巻く環境というのは本当に奥が深い。

「そこまで聞いてる限りでは何も問題ないように聞こえるんだけどなぁ。」
と一見して善人にしか見えない武内が答えた。最近はまっているゴルフのせいで肌は真っ黒に日焼けしているが、彼を見て悪人だと思う人間はまずいないだろうと思えた。その癖、柳田が知っている十何年という間、浮いた噂の一つも聞いたことがなかった。もっとも柳田もそういうところには特別気も使わないのだが。

「それはあくまでもルールが正当に守られた場合だ。しかもこのルールというのがどちらかというと、スポーツのルールって感じでもない。何て説明したらいいんだろう。」
柳田はうぅむと少し考え込んだ。考え込む際に顎の下に少し手を置いて首を前方に傾げる癖があるのは彼のトレードマークとも言えた。

「いい例が思いつかないんだけども、例えばウィキを格闘技としたら相手と自分で同じルールで戦っているはずのように思っていたら、相手のほうが自分をやっつけるのに向いているルールをいくつも余分に知ってた、みたいな感じ。やられたほうはやられてから気づく、みたいな」
説明している柳田本人もしっくりはいっていない様子だったが、話された武内のほうもまったく同じような印象を受けた。何となくは分かるのだが、よく意味が分からない。

「違うなぁ。実際には法定論争というのが一番ぴったりくるんだよな。そう、ウィキは法定論争なんだ。項目の執筆者は被告、例えばそれを擁護しようとする俺たちは被告側の弁護人、勿論自分が被告の場合もある。そしてウィキの編集者は原告側の検事であり裁判官だ」
今回は少し柳田も当を得たり、という顔だった。
実際にこの例はずっと柳田も思い描いていたことだった。ウィキの編纂というのはあたかも弁護士のような作業だ。正当性をうまく主張しなければすぐに削除されたり、編集の根拠を問われたりする。日本にいた19年間は国語少年で鳴らした柳田であり、中学校までは弁護士になりたいと考えていたくらいだったので、このウィキのロジックについていくのはそれほど苦ではなかった。だが、一般のどれだけの人々がこのロジックを理解し、またついていけるかどうかというのは甚だ疑問だった。オープンなようでオープンではない、それがウィキペディアだと感じていた。少なくとも日本版は。もっともそうでなければあちこち荒らされてしまって体をなさなくなるということもよく分かっている。

武内はポケットに入れていた携帯が鳴っているのに気づいた。そっと調べると電話の主は今話している当人である柳田の妻、恵子であった。もちろん柳田とは竹馬の友である武内であるから、妻ともそれなりに面識やつきあいがあった。武内は黙って電話を留守番電話に転送した。

ウィキペディアンの憂鬱 7 8 9

先日のブログワールドエキスポ(BlogWorld Expo)ではメディアとしてではなく、私自身もソーシャルメディアブロガーとして非常に貴重なレッスンをいくつも学ぶことができた。

ソーシャルメディアの世界は「個」が情報を発信するところであり、競争する相手はマスメディアではなく、他のブロガーだったりインフルエンサーになる。しかし、まだまだソーシャルメディアの世界は飽和しているような状態ではないので、自分のニッチを見つけるのはそれほど難しくはないだろう。どちらかというとブロガー同士が共生しあって、お互いのサイトに読者を誘導したり励まし合ったりするような時期がしばらく続くことになると思う。

現在ソーシャルメディアの本を2冊執筆中なのだが、私自身も今後力を入れていきたいソーシャルメディアプロデューサーとしての新プロジェクトを考えてみた。
それがずばりサウスベイ・ラーメン村構想だ。日本にも会津や札幌などラーメンで有名な地域はあるが、筆者が住むトーランスという町にも日本人が多い関係でラーメン屋が乱立している。それ以外には寿司屋も、そして面白いことにマッサージ屋も増加している。サイトの立ち上げにはユニークなドメインを取得することがSEO的にも有効な手法であり、この点でちょうどいいドメインが空いてた、RAMENVILLAGE.com! (そのまま) ということで早速立ち上げた。

ソーシャルメディアを利用するには地域に根ざしたネタを探す必要があるので、この点である意味村おこし的な意味合いももつだろう。このサイトではいわゆるラーメンだけではなく、ベトナムのPhoとかハワイのサイミンとか、台湾ヌードルなどのヌードル・スープを全般に扱っていく予定。週末はラーメン食べて、お寿司食べて、ついでにマッサージまで受けられてしまう、このサウスベイという田舎町(失礼)をもっと近郊のアメリカ人によく理解してもらうためにもこのような試みが必要なのではないかと思った次第。

もちろんシステムはNingだ(バカの一つ覚えみたいだが、Ning専門家としては仕方ない だって簡単なんだもん 笑) ここまで数時間でできてしまうNingは素晴らしいと思う。

ということで、LA近郊の方も、昔住んでた方も、あるいはそうでない方も、興味のある方はぜひともご参加ください!

Ramen Village Top Page

えっ、収益はどこから来るかって? プランはあるので、まずはアクセスを集められるかどうかをやってみて、それから考えるとする。(Ningは1ヶ月無料だから、初期投資はドメイン所得の1000円くらいだけだし)

結果の最上位に表示されるものの大抵は、そういったSEO効果の賜物であり、グーグル検索のアルゴリズム上で最大の評価をその瞬間に受けているもの、というだけに過ぎない。もちろんこれに対してグーグルを初めとしたウェブ企業はさまざまな手法を凝らし始めてきてもいる。いわゆる「リアルタイム・ウェブ」というのもその流れで、その最たるものが世間を賑わしているツイッターだ。ここにも実は「情報の収斂」の最たる要素と言える二つのキーワードが成功を支えていると筆者は分析している。
それは先程伝えたセカンドライフの大失敗と正反対の性質を備えたものである。

情報の収斂現象についてツイッターを支えている二つの大きな成功要素、それは

1. ソーシャルタギング(あるいはピアーやフラグを用いた手法)
2. 文字数の制限

である。これが先程述べた情報の収斂に関わってくる重要な要素である。ソーシャルタギングというのはつまり人脈から「コンテクスト」を検索対象に付加価値として付与することである。ツイッターではフォローという言葉でそれが説明されており、自分が「有益」だと思う情報を提供してくれる人物、あるいは興味のある内容を語ってくれる人物をフォロー(英語でいうところのFollowerという意味には「信者」という意味があるのは偶然ではなかろう)する。例えば電子書籍に関しての最新情報を追いかけるならば、ブログやIT系のサイトなどで最新の情報を発信している人物を見つけ、ツイッター上でその名前で検索(もっとも最近はあちらこちらにツイッターIDが貼ってあるので検索するまでもないかも知れないが)すれば見つけることができる。後はフォローしているだけで随時必要で有益な情報が入ってくるという次第。ブログは自分から探しに行く手間が結構あり、RSSフィードなどのツールでもっぱら同じようなことができていたのだが、ツイッターのほうが基準が統一されており分かりやすい。ただし、誰をフォローするのか、という点については自身で分析をしていく必要がある。これがソーシャルメディアの醍醐味である。多くの場合はフォロワー数を指標とするのだろうが、逆にあまりにフォロワー数が多い人物のコメントは誰もが知っているので、あまり「裏ネタ」としては使えないことが多い。

また将来性のありそうな人物などに早い時期から注目していき、その成長を見守るというのは昔からあるアイドル発掘と同じような楽しみがあるだろう。またフォローしすぎることで情報の消化不良を起こしてしまったり、ツイッター漬けになってしまうことも注しなければならない。情報を集めていたつもりが、何の情報を集めていたのか分からなくなってしまったということになりかねないくらい、この便利なサービスを介して世界中で有象無象の情報が飛び交っている。(その場合トピックごとに応じたリストを作るのが便利だ)

もう一つのポイントは文字数の制限にあると述べた。これは実は非常に日本人に向いた発想であると思っている。何故なら日本人は豊かな自然に囲まれた環境の中でそれらを「歌」で表現してきた民族である。万葉集、古今和歌集、そしてそれらから秀逸なものを厳選してできた百人一首、後には奥の細道に代表されるような俳句集もあり、江戸時代には世相を反映する川柳が流行り、これはサラリーマン川柳などという粋な現代文化に姿を変えて今もそのスタイルを維持している。フォークやJ-POP、演歌などがカラオケで日本国中の老若男女に愛されているのもそうだし、それが世界に広がったことを考えると世界にも同じような「言葉」好きな人たちが多いのだろう。「言霊」という言葉があるがそれくらい、言葉やカタカナの「コトバ」には人間の魂と呼べるようなものが詰まっている。

そして、その言葉を最も美的に「収斂」する方法というのが文字数やスタイルを制限することである。先程セカンドライフがあまりに自由度が高いために失敗したという話をしたが、これとは真逆のアプローチで成功した例にツイッターがあると思う。一般的にルールというものは厳格であればあるほど競技者が切磋琢磨して技術を向上することによって得られる結果の中に勝敗を超えた「美」が滲みでてくるようになる。五・七・五という限られた文字数の中で最適でもっとも美しい「美」を求める俳句の世界にみられるように、人は制限されればされるほど、その中で推敲を重ねていく努力を続けるものである。これが観るものや触れるものを魅了するのは文芸のみならずスポーツや格闘技の世界でも同じことだ。だが多くの場合、これらの「美」は要である制約条件と言うルールが外されると途端にその良さを失うくらいに繊細なものであるという諸刃の剣的な側面をもっている。この点でBit.lyなどのURL短縮サービスはツイッターの140文字に収まりきらないURLを短縮するという切り口でうまく宣伝できたいい例だと思う。最もこの文字数の制限はいきすぎると、前述したような「釣り広告」的な文言になってしまうので注意が必要だ。

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少し話がそれるが、インターネット広告市場が大きくなっているといっても、大手依存の傾向は強くソーシャルメディアの足かせとなっているのは俗に言うPV神話(PV:ページビューが多いところに広告が周チュするということで過当競争を産み、結果大手サイトに広告が集中するために何とかPVを増やそうとしてあの手この手でアクセスを増やそうとする、という悪循環を生む)と揶揄される現象により、ほとんどは大手に集中している。さらにそれさえも低下してきていることはネットの広告市場が伸びていると言われる割には売上規模が伸び悩んでいる大手インターネット広告代理店の業績にも現れている。

もっともウェブの世界では今後「収斂」がトレンドになっていくと分析している。膨大に増えてしまったサイバースペース上の情報は、一部の人々には便利を通り越して「不便」になりつつあるからだ。人間は自由よりも選択肢を与えられたほうが行動しやすいもので、筆者はよく「多選択は無選択」とう言葉でオンラインマーケティングの世界を形容することがある。よく無限にカスタマイズや選択ができたり、自由に行動できたりすることがあたかも優れた機能であるかのように見せるPR手法を用いて宣伝しているインターネット関連のサービスがあるが、実はこれらは逆にユーザーを困らせることが多い。あまりに何でもできてしまうと逆にユーザーは困惑し、何をしようかと思い巡らせるうちに結局何もできず時間だけが無駄に費やされて、そのうちそのサイバースペースから遠のいていくのだ。

一時日本ではやった「セカンドライフ」がその典型的な例である。人間の行動にはある程度選択肢が限られているほうが、先に進みやすいということを示すのに分かりやすい例を挙げるとすれば、アメリカのショッピングモールのデザインがそれだ。アメリカのモールはお客さんが周り易いようにレイアウトされているため、実際に中に入ったはいいがどこを見ていいかよく分からないというモールはほとんどない。一般的な屋内型のモールは中央に大きな吹き抜けの通路が設けられており、買い物客は階を上がったり下がったりしながら、右回りか左回りかで各店舗の前を通過しながら目当ての店舗を探して中に入るわけである。これが屋外型のモールになると中央には大きな駐車場が据えられていることが多い。

構造的には電子出版やソーシャルメディアなどとも深く関わってくる話なので、この「情報の収斂現象」に関して少し補足しておくが、1998年に当時スタンフォード大学の学生であったセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジがサン・マイクロシステムズの創業者の一人であるドイツ人エンジニアのアンディ・ベクトルシャイムから、10万ドルの出資を受けてグーグルという世界で最初の本格的なネット検索エンジンをスタートさせてからはや20年。今やグーグルの膨大なクラウドサーバーに検索される情報量は天文学的という以外に形容することのないほどのデータ量になってしまっている。筆者が住んでいるロサンゼルスと同じ西海岸上にあるシリコンバレーはこのインターネットテクノロジーの普及を受けて繁栄を遂げたが、その影には無数の栄枯盛衰の物語がある。

ドットコムバブルという言葉があるほどにウェブの世界は一時は華やかなVCからの資金調達とIPOというエグジット戦略などに象徴されるように、もてはやされてきたものの、その実あまりに便利になりすぎてしまった「ネット」上では情報の価値はタダ同然となってしまい、ロングテールと呼ばれる多くのユーザーは情報に対価を支払うという概念すらもたずネットで検索できる情報はすべて無料で提供されるべきであるとでも思っているかのようだ。しかし、ネットと世界中の有志の「集合知」を代表するWikipediaのような画期的なサービスはともかく、通常ネットに散見している情報というのはほとんどが何らかの営利団体が関わって提供されており、もちろんそこには何らかの形での収益が発生する必要があるわけだ。ここに多くのウェブビジネスを苦しめる大きなジレンマがあるのだが、ユーザーがこれまで通り情報というものに対価を支払わないという選択肢を一般的なものとして捉える限りは大きな収益源というのは広告しかない。このネット広告という存在がまた大きな市場を生んでいるので、それがさらに様々なビジネスモデルや業者を惹きつけてしまうわけである。

SEO(Search EngineOptimization:検索エンジンの最適化)サービスなどがその最たる例だが、業者がパワフルになればなるほど、グーグルはそれを適性排除しようと検索アルゴリズムを変更してくる、という感じに悪循環が続く。まるで筆者が大学の環境学の授業の一つで学んだ「スーパーバグ」理論さながらである。(スーパーバグ理論というのは、農場などで撒布される害虫対策の農薬が一部の害虫に耐性を付与してしまい、その後その生き残った害虫を駆除するためにもっと強い農薬を開発する、そしてまたそれに対しても生き残る害虫がより強力な耐性を身につけてしまう、という感じで悪循環が続くことをいう)この結果、ユーザーは今や検索エンジンで「自分が最も探している回答」にそうそう辿り着けなくなってしまった。(続く)

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日本語の電子書籍が本格的に普及し始めた時に、日本のみならず日本書籍が入手できる世界中で起こりそうなことが一つある。新書の販売数の低下である。先ほど私が新書ならば内容によっては1時間以内で一冊読み終えてしまうという話をしたが、これはその後の読後感もその程度ということが多い。具体的な名前を挙げる必要はないと思うが、日本で大ベストセラーだというから興味本位で読んでみたはいいものの、下手をするとタイトルと内容がほとんど一致していないということに気づいたりすることもある。

よく文字数の限られた大手ポータルサイトや大手SNSのニュース欄なんかで、大げさな見出しで注目を集めてクリックを誘う手合いが多いが、あれとまったく同じではないか。日本は空前の新書ブームらしく、筆者も日本滞在中に書店を訪れるたびに目にする夥しい数の新書棚の前で物色をすることが少なくない。しかし、中には文字数も少なく中身がないものも多く、こんな本に700 円を払うなんて!とがっかりを通り越して怒りそうになることもある。

タイトルを見ても、二匹目のドジョウとばかりに似たようなタイトルが並ぶのも考えものだ。(もちろんこんな私が言うまでもなく関係者の方々も現状にお気づきだとは思うが)先日購入した筒井康隆氏の「アホの壁」(このタイトル自体がもちろん著者も書いている通りに養老教授のベストセラー「バカの壁」にあやかる形で上梓されており、ちなみに筒井氏がこの話題に前書きで触れた理由はもともとの執筆依頼が「人間の品格」だったからだそうで、ちなみにこの「人間の品格」という作品も別の作家によって出版されているから笑うに笑えない現状だ)にもあったが、私の愛読書である「祖国とは国語」の著者である藤原正彦教授のベストセラー「国家の品格」にあやかった「~の品格」というタイトルの著作がすごい数世に送り出されたらしい(20以上はリストアップされていたと思うので思わず吹き出しそうになった)が、「国家」より売れたのは「女性の品格」ただ一冊だけだったとか。

その少し前は「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」に影響された「なぜ~のか?」シリーズもあったし、人気TVアニメを題材にした「磯野家の謎」がヒットした直後には「~の謎」シリーズがそれこそ雨後のタケノコのように出ていたのを覚えている。(もちろん全部中身次第なので、それをそのまま否定するつもりはないことを理っておく)実際にはタイトルにつられて購入したはいいが、読んだ後にあまりの中身の薄さに激怒するような読者も多くいるかも知れず、アメリカの返品文化に慣れつつある筆者などはこれ自体は本来なら「品質保証」外の返品に該当するような例ではないかと感じてしまう。

アマゾンのKindleではないが、もしも電子出版に返品というシステムが採用されたら、例えその期間がアマゾンが採用しているような一週間は長いとして例え三日でも、場合によったら一日でも返品ラッシュが起きるような製品がでるのかも知れない。その点でフリーミアム戦略や「立ち読み」機能などが充実してくるかも知れない。いずれにせよタイトルや広告戦略の影響でもしも本来の需要よりも売り上げが「水増し」されてきたような事実があるとしたら新書に限らず電子出版で壊滅的なダメージを受ける可能性もあるかも知れないし、百歩譲って返品ルールが(幸いにも)設けられなくても紙版に比べて電子版が易いという状況になれば電子版を選択する消費者が拡大することは十分に考えられる。

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電子出版を取り囲むこのような状況を思案し続ける中で、何度かでくわした結論がある。それは電子出版の主役であるコンテンツを作るのは作者だけではなく、編集者という強力な支援者がいなければ成り立たないのではないかということだ。(実際にこの本も山田順氏という数々の本をプロデュースしてきたベテラン編集者の協力のもとに成り立っている)これは本にしてもマンガにしても同じことだ。世に送り出されてきた名作や大作といわれる作品の中で著者だけで完成した作品というのは実はそう多くはないと思う。

編集者はこれまで出版社に雇われた立場で、売り上げを気にする上からの意向と自分のポリシーを貫きたい作家とのはざまで板ばさみにあいながらも、数々の名作を世に送り出してきた影の立役者の集合体である。出版社が不況にあえいでいるのは他の経営上の問題があるからであって、それがすなわちその会社で働いている従業員の価値を一切否定するものではないということは声を大にして伝えておきたい。もちろんこれからの時代は市場のニーズも読者自体も大きく異なってくるわけだから、市場にあったコンテンツづくりをするためには数々の苦しい自己否定を通過しなければならないかも知れない。しかし、これまでの苦労と実績が本当に自分の身になっていれば、きっとそんな苦労は乗り越えることができるはずだ。これから世界という市場に向かってますます大きなチャンスを手にするクリエイターと同様に、編集者の方々にも可能性を捨てずに大きなビジョンをもって、先に進むことを提言したい。これからは独立した編集者、あるいは実力のある編集者のチームが従来の業界ではメジャーになれなかったクリエイターをどんどん世に送り出していく時代となって欲しいと私は心の底から願っている。そうでなければ「開国」の意味はない、とまで言えるだろう。

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もちろんこの為には、クリエイター側でも変わらなければならない。変わることも、その変化に慣れることも痛みを伴う。この場合には、例えば大手出版社に対する依存心を捨てることがそうだし、狭い日本の文化の中でしか受け入れられないコンテンツや描写手法というものを、より世界で受け入れられるものに変えていくということがそうなのかも知れない。しかし、市場はそこにあるのだし、日本の漫画家は世界には類を見ない高度な文化的生産者であると信じて疑わない。

新しい出版パラダイムの中では例えば漫画家と編集者、漫画家と原作者といったこれまでの関係の中でもダイナミックな変化が必要とされるのかも知れない。が、逆をいうとそこには大きなビジネスチャンスがあるということだ。日本では有名な漫画家でも(一部の例外を除き)世界ではほとんど無名である。日本では誰もが知ってるTVアニメでも、海外で誰もが知っているTVアニメなんて実際にはほとんどないのが現実だ。(日本のマスコミ「大本営」がどういう報道をしているかは知らない)これはつまり、「チャンス」である。日本のプロスポーツ選手の多くが世界を経験して強くなり、それを日本に持ち帰ったように、これから日本のクリエイターも世界でどんどん武者修行をして強く、逞しくなって欲しい。そうすることで閉鎖的な現状に変革をもたらすことができるというのは、スポーツにとどまらずビジネスや研究の世界では証明されている。

クリエイターよ大志を抱け!と筆者はエールを送りたい。
そしてたくさん儲けて自身の夢をどんどん叶えていって欲しい。もちろん前提条件は”NO PAIN,NOGAIN”(痛みなくして得るものなし)であるから痛みを伴うのは覚悟して欲しい、がそれは単なる使役労働を課せられるのとはまったく異なる次元の痛みであり、全て後の自分のためになる痛みである。何度も言うが電子出版という市場はまだ始まったばかりの市場であり、その市場規模がどれくらいの大きさになるかは計り知れない。

ちなみに、筆者のライフワークの一つである起業というテーマに立ち返って前述の弟の話に戻ると、実は単純な勤務時間や作業環境、従業員を抱えることのプレッシャーなど鑑みると、他者に一切依存せずに独立している起業家のそれのほうが、はるかに厳しいものなのである。時にはまったく見通しが立たないような状況に身を追いやられることもある。が、それはまったく異質のものであり、そこには大きな喜びが並存するのである。だから続けられるし、無理もできる。その喜びが何であるかをぜひ独立したクリエイター諸氏の目で確かめて頂きたい)

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(前回より続き)
一方大手出版社の気持ちもよく分かる。この不況と、躍進しているチャイナパワーで揺れるグローバル経済の中、誰しもが先行き不安を感じている。誰だって将来が見えなければ怖いのである。特に日本の出版業界は寡占に近い状態が続いてきており、「大手」はめっぽう強かった。が、この「大手」があちこちの産業で崩れるのが今の社会である。航空業界、音楽業界、自動車業界など栄枯盛衰はどこにでも存在する。資本主義の中では競争力を失えば滅ぶしかない。そうなりたくなければ、生き残りに全力をかけるしかないのだが、そこでの生き残りというのは「適者生存」という言葉が示すように、変貌する市場において「適者」となるための行動をとり、実際にそうなることであり、これまで通りのやり方を維持する方法を必死に模索することではない。筆者は常々資本主義社会の次のステージは「最適化社会」であると考えているのだが、つまり、これまでにあった無駄が全て排除されていくということだ。今世紀の市場経済にはこのような「無駄」や「非効率性」を許容する余力がない、というか許容することをそもそも認めない。マンガが日本の出版産業を支えている、ということはよく分かる。そしてその産業の育成に貢献してきたのは大手出版社であった。その功績は確かに多大なものである。しかし、電子出版の登場と本格的な普及により時代は変わる。そしてその背後にはやはりインターネットという万能インフラの存在があるのだ。

思うに、今回の電子出版が入れようとしているメスはマンガ産業の構造そのものについてではないか。巷ではファーストフードの店長などに対する残業賃金が問題になっているが、本質的にはこういう問題に近いと思う。この点で筆者は自分の弟という非常に身近な人物を通して、社会から悪くいうと「搾取」されてきている人物の生活を見ている。高卒の学歴しかない弟は漫画家を志望して、食いつなぐために某有名飲食FCチェーンでアルバイトを続け、その後店長になった。しかし、傍目にその待遇はひどいものであった。残業代ももちろん発生しないし、気まぐれなアルバイトが空ける穴を埋めるために急遽休暇を返上して朝5時に出社しなければならない。漫画家やアニメーターといった日本の一部の産業を底辺で支える人たちの生活もこれと同じかそれ以下であったりはしないか?勿論下積みが大切なのは分かる、が、クリエーターとて人間である。安い給料でひたすらこきつかわれ続けるのは人権問題であり、そのような立場の人間を想定しなければ成り立たない産業というのはそもそもビジネスとして破綻しているのではないか。搾取しているとかされている、といった問題ではなく、双方が歩み寄るか新しい線引きをすることでこの問題に向かい合わない限り産業自体が成り立たなくなり共倒れするという話だ。

弟はその後転職したのだが、それまで10年以上(私の目には)「過酷な」というか「不条理な」労働を続けてきた。アメリカの労使の観点からすると完全に違法な行為であることがまかり通っている。勤務そのものが過酷であるということよりは、前提とする雇用のルールが捻じ曲げられているのである。しかし弱者はそれに気づかなかったり、泣き寝入りすることを余儀なくされたりするのである。特にこの稀に見る大不況ではそうなっても仕方ない。が、それは「他に選択肢が無い」場合である。筆者が日本のクリエーター達に声を大にして言いたいのは、電子出版がそういうこれまで日の目を見なかったクリエーター諸氏、そしてそれをサポートする編集者に脚光を浴びせることができるかも知れない、ということである。(さらに続く)

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(本稿は2010年4月に書かれています)

-呉越同舟か船頭多くして、か?電子書籍協会はどこへ行く

電子出版が昨年末からにわかに日本でも脚光を浴びだしたおかげで、今年は毎月のように日本に出張することとなったのだが、年初に行ったときのこと。大手メディアは国内の大手出版社21社が集まって、電子書籍協会なるものを設立した。私は実は機内の新聞で電子書籍協会が発足することを知ったのだが、やはり一般的なリアクションだとは思うが、困惑を隠しきれなかった。後に国内で大騒ぎになったニュースなので、詳しく説明することはしないが、当時発足の目的は次のようなものだと告知された。

1. 電子書籍市場の拡大
2. 米国の電子書籍大手アマゾンの読書端末「キンドル」の日本語版発売が想定される中、主要出版社が書籍電子化に団結して対応すること

また同協会は、著者や販売サイトとの契約のモデル作りをしたり、電子書籍の端末メーカーと著者、出版各社などの交渉窓口となることを意図しているとも報道された。挙句の果てにはデジタル化に伴う作品2次利用に関する法整備も求めていく、というコメントまであった。

後にこの一般社団法人「日本電子書籍出版社協会」(正式名称)にはもう10 社が加わり、計31社となった。しかしこの一見呉越同舟に見える乗合船も、これだけ既存の大手から中小規模の出版社までをすべて囲い込んでしまっては意思決定がどれだけのスピードでなされるかということについて、まったく検討もつかない。対するアマゾンはと言えば2010年1月だけでも矢継ぎ早にIRを告知(20の告知がなされたが、そのほとんどがKindle関連のものだった)して、テンポの速い業界に慣れている我々でさえ目を見張るようなスピードで革新を進めている。しかもアマゾンが見ているのは世界だ。しかもAmazonのジェフ・ベゾスCEOはアマゾンの創業者である。もう一つの雄Appleの現CEOであるスティーブ・ジョブズも創業者だし、グーグルもそうだ。(マイクロソフトだけは創業者のビル・ゲイツがすでにリタイアしてしまっている)今年の日本のフォー
ブス長者番付で堂々の一位に輝いたユニクロの柳井社長も創業者だ。私が思うに、このような大不況ではゼロベースに思考を戻して果敢に勝負に打って出られる経営者が強く、この点ではやはりゼロから会社を大きくしてきた創業者ほど頼りになるものはないと思う。

一方「電書協」(先程の「日本電子書籍出版社協会」の略称)のほうはと言えば、参加者の中にほとんど創業者がいない。また出版業界では大手と言えど、恐ろしいくらいにアナログの人たちが多い。(もちろんそれ自体を否定するわけではない、これまで必要ではなかったのだからそれはそれで構わない)つまり現状を正確に分析することのできる人物が経営者になっている可能性はかなり低いという訳だ。そして、この決裁権をもっている経営者がなかなかこの「電書協」のような団体の会合に直接足を運ぶことをしようとしないのであり、代理を送り込むことになる。そうなれば、例えいいディスカッションや提案が会議中に成されたとしても、結局は色が薄まってしまう。これでは到底アマゾンの猛攻に
追いつけるわけがない。追い越すなんてもってのほかだと思う。迫り来る黒船の脅威に対して、呉越同舟と言えば聞こえはいいが、「船頭多くして船山に登る」という言葉がぴったりくるような展開になっていきそうな気がして仕方がない。今日の日本の出版業界、特に講談社・集英社・小学館の大手はその収益の大半をマンガに頼っており、実際に日本の出版業界におけるマンガの売上と利益性というものはまさしく業界の屋台骨となっているという指摘がなされている。

佐藤秀峰氏の言動が出版界に及ぼした影響(ブログ1-18-10をもとに加筆修正)医療業界にメスを入れる視点から現場の実情が描かれていることで話題の「ブラックジャックによろしく」や「海猿」などの作家で、昨今出版社(編集者?)との軋轢からマンガのデジタル直販を始めることになった佐藤秀峰氏が自身のブログでこの件について言及している内容も話題になっている。いわく「漫画家が出版社を養ういわれはない」。本
書でも幾度か言及してきた「依存心」がここでも問題になっている。筆者が思うにこの問題のポイントはパワーバランスである。門外漢の目から見ると現状の出版業界ではこのパワーバランスが著しく出版社側に偏っているように見える。(他によく似た例では歯医者と歯科技工士の関係があるそうで、これも日本ではかなり技工士側に厳しい待遇になっているが、アメリカではほぼ対等だそうな)戦後の日本の経済成長を支えてきたのはモノづくりであったが、自動車や家電と言った物品以外にも日本は「コンテンツ」をつくってきたのであり、この意味で工員的な体制で仕事を続けてきたのはある意味仕方がないかも知れない。しかし漫画家や作家がブルーカラーかというと、必ずしもそうあるべきではないし、分業や報酬といった観点でも、もっと違ったシステムもいくらでも考え付くはずである。

筆者は電子出版の力がとてつもなく大きなものであり、結果的にはそれが世界中の多くの人々のためになるということを信じてやまない。特に今経済力を失い、このままいくと世界3位ばかりか、7位(ドイツ、フランス、イギリス、イタリアに抜かれれば)、あるいはもっと下(その下の諸国は接戦である。PerCapitaだと中国とはまだまだ開きがあるが、こちらでは日本は20位以下である)の地位に甘んじなければならなくなるかも知れないという危惧間の中、日本はこれからアジア圏に対して文化的リーダーという地位を築き、他のアジア諸国が先進国の仲間入りをするのを先導する立場をキープすべきだというのが私の持論であり、これは経済成長を果たした大国がいかに「持続可能な発展」を全体で標榜しつつ、発展途上国の経済成長を導くかという環境政策学の視点に通じるものもある。

一方大手出版社の気持ちもよく分かる。この不況と、躍進しているチャイナパワーで揺れるグローバル経済の中、誰しもが先行き不安を感じている。(続く)

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