2 6月 2010
(このシリーズはティーンエージャーを対象に書かれているため、文章が平易になっていたり会話文が使われていたりするなど他のエントリーとは表現が異なります)
また来てくれてありがとう。誰にも言われずに、自分で何か行動を起こせるということ、それが自立するということだ。
禅(ぜん)というコトバを聞いたことがあると思う。禅というのは仏教の一つの禅宗というところからきているんだけども、この禅(英語ではZEN)というのは海外でとても「クール」だとされている。クール(Cool)ってのはカッコいい、とかイカすってことだ。(今風には別の言い方があるのかも知れないけども、僕ももうオジサンだから君たちの話すコトバはよく分からない)
禅は悟りというものを教えてくれる。悟り、ってのは「気づき」みたいなもんだと考えてほしい。本当はもっともっと奥が深いものだけども、ちょっとした「気づき」を得るにはこの禅の教えというのがすごくヒントになる。宗教なんて、古臭いだなんて思わないでほしい。世界ではむしろ宗教を信じている人のほうが多くて、なんだかよくわからない信仰(しんこう、宗教を信じること)をもっている日本人のほうが逆に珍しいんだ。
じゃ、気づきの話をしよう。視点(してん)というコトバはわかるかな?目線のことだ、どこから見るか、どう見るか、そういうこと。時にはこれを変えるのがとっても大事で難しいことだ。大人になればなるほど難しくなっていく、頭の中がこり固まっていくんだね。君たちはまだまだ若いから、頭はスポンジみたいに柔軟(じゅうなん、やわらかいこと)でなんでも吸収できる。それはとてもすばらしいことだ。気づきを得ると、急に目の前が開ける、これまでなんでこんなことに気づかなかったんだろう、ととても楽しい気分になるんだ。
「活字離れ(ばなれ)」ってコトバを聞いたことがあるだろう?活字ってのは文字のことだから、大人によると、君たちは文字を読まないそうだ。読書嫌いの子供が増えてるって。小さい時から本やマンガがとっても大好きだった僕からすると、それは本当に残念なことだ。本は夢であり、ロマンだ。希望であり、失敗であり、人生を小さくしたようなものだから。でも、ちょっと待って欲しい。これって本当なのかな?
現に今こうして君はこのブログというものを読んでいるし、周りにはゲームや、携帯、そしてマンガであふれかえっているんじゃないかな。だから本当は君たちは「活字」から離れてっているわけじゃない、活字という情報(じょうほう)は君たちのまわりにむしろ増えている。ポイントはそこじゃない。情報というのは、単なる知識(ちしき)であって、それを読んだからといって吸収(きゅうしゅう)できるわけじゃない。でも読書は違う。本を読むといろんな世界へいくことができるし、自分がけいけんしたこともない感情にふれることができる。だから読書はすばらしい。
「ゆとり」というコトバも同じだ。日本では「ゆとり」教育というのがあって、日本という国じたいがまちがったことをしたために、君たちの多くはその被害(ひがい)を受けた。被害ってのは痛みを受けることだ。だけど、安心してほしい、君たちはもう「ゆとり」なんかじゃない。なぜなら、周りがゆとり、ゆとり、とさわぐから、みんなもう「何かおかしいみたいだ」って感じはじめているだろう?だったらゆとりは卒業だ。君たちの中にあるのは「不安」であって「ゆとり」と違う。周りの人のレッテル(ラベルのことだ)なんて、はねのけて自分の力でその「不安」とたたかう方法を見つけてほしい。いい方法があったらオジサンにも教えてくれないか。
2 6月 2010
(このシリーズはティーンエージャーを対象に書かれているため、文章が平易になっていたり会話文が使われていたりするなど他のエントリーとは表現が異なります)
また来てくれてありがとう。ちょっとしたことでも行動することが大事だ、座禅(ざぜん)だけ組んでたり、お祈りだけしてても世界は変わらない。
日本では毎年3万人以上が自殺しているという統計(とうけい)がある。これはすごい数だ。先進国といわれる世界でもっとも経済的(お金のことだ)に恵まれている国の中で、日本ほどこの数字が高いところは珍しい。何を隠そう僕だって、中学生の時にはよく自殺について考えたものだ。よく思い悩むほうだったから、自殺ではなくて、発狂(はっきょう、気が狂っておかしくなること)してしまいそうになることが何度もあった。19でアメリカに行くようになったきっかけも、受験に失敗したからだ。当時僕は世界で働く仕事がしたくて、そのために大学に行きたかった。うちは両親が離婚して母親だけしかいなかったから、その親を喜ばすためにも行きたかったし、学費は自分でアルバイトをした。(最初のアルバイトは小学校を卒業した春休み、近所で新聞配達の仕事をした。それから、自分のおこづかいはずっと自分で稼ぎ続けた) 親に迷惑をかけたくなかったから。
だけど、何校受けても受からず、結局二浪することになった。その時、僕の頭の中で何かがハジけた、いわゆるプッツンだ。だから受験のプレッシャーなんてことはとてもよくわかる。高校三年生の時には自分で目標を立てて、夏休みに365時間勉強するようにした。平均すると一日8時間以上だけども、ちょっと遊びに出たりすると、すぐにすごいツケが回ってくる。でもこれも達成した。だけど全然受からなかった。死に物狂いに勉強して、模試(もし)もいっぱい受けた。こういうのを挫折(ざせつ)って言うんだろう、とその時は絶望(ぜつぼう)して目の前が真っ暗になった。
で、もしもそういうことや恋の悩み、あるいはいじめ(これについても話せることはいっぱいある。なにしろ僕が育った町は本当にガラの悪い町だったから)なんかで思い悩んで、自分の尊い生命を絶とうということを一度でも考えたことがあるなら、この続きを読んでほしい。
まず、自分が死んだら悲しむだろうと思える人のことを思い浮かべてみてほしい。そして数を数えてみよう。
その次に、自分が死んだら喜ぶ人(本当はそんな人いないと思うんだけども)の数を数えてみよう。どっちが多いだろうか?
そして、最後に、「自分が死んでもまったく影響を受けない、それどころか死んだことにもいっさい気づかない人たち」の数を数えてみよう。数え切れないだろう。
悔しくないか?
2 6月 2010
(このシリーズはティーンエージャーを対象に書かれているため、文章が平易になっていたり会話文が使われていたりするなど他のエントリーとは表現が異なります)
また来てくれてありがとう。
さて、よく「自分探し」っていうコトバを聞くだろう?自分探しの旅にでた、とかいうやつだ。でもそんなことするのはムダなことだと僕は言う。
何故かって?それは「自分」はどこかにいるものじゃないからだ。どこかに行ったら自分が見つかった、なんてことあるわけない。自分は自分だ。どこにいっても、ふだんと同じ自分がいるだけだ。そんなの誰でもわかってることだ。「自分探し」ってのはそういう意味じゃない。
探すモノを間違えてはいないか?僕は、探すのは「自分」じゃなくて「先生」だと思う。別にそれは学校の先生じゃなくてかまわない。というか、学校の先生であることのほうがめずらしいだろう。せっかく旅にでるなら、「先生」や「師匠(ししょう)」を探しにでかけたらどうか。僕も旅が好きで、10代の時はいろんなところに行った。僕は大阪出身だけども、よく自転車で京都にいった。高校生の時には春休みに自転車で九州を一週間で縦断したこともあるし、能登(のと)半島というところを歩きにいったこともある。野宿もしょっちゅうで、奈良の国立公園で野宿した時には蚊にさされてたいへんだった。そして、10代最後にバックパッカーとしてカバン一つに下着とTシャツだけをつめこんでアメリカに行った。40日間の旅の予定で、もっていたお金は8万円だった。一日2000円だ。
でも、どこにいっても、そこにいるのは自分だった。変わらない自分。「自分探しの旅」に出たって自分なんかちっとも変わりはしない。むしろ、自分がどんなやつか分かって嫌になるだけのことも多い。旅はすばらしいし、(生命の危険が伴わない限り)ぜひおすすめしたい。だけど、そこで自分を探そうなんて思わないでいい、探すなら自分を変えてくれるきっかけを与えてくれる「先生」を探すことだ。そして、その先生は人間じゃないかも知れない、大自然だって、物音だって、石ころだって、自分の人生を変えるきっかけを与えてくれるかも知れない。大事なことは心の耳をすますことだ。
2 6月 2010
(このシリーズはティーンエージャーを対象に書かれているため、文章が平易になっていたり会話文が使われていたりするなど他のエントリーとは表現が異なります)
日本に住む10代の若者たちへ
僕はこのブログというものを通して、日本の未来を背負う君たちにメッセージを送りたいと思う。
まず僕が誰かというと、大して有名でもない今年36歳になるおじさんだ。今は日本じゃなくて、アメリカのロサンゼルスというところに住んでいる。ロサンゼルスと日本は太平洋という海を隔てた両側に離れている。でもブログはインターネットを通じて、こうして日本とアメリカをつなぐことができる。
君たちがテレビで見たり、本屋さんに並んでいる本を書いたりするほどの有名人じゃないし、社会で大きな成功を収めたわけでもない。でも僕はこうして、君たちに向けてのメッセージをここに書くことにした。何故かというと、普段日本にいない僕が直接君たちに話しかける方法というのは限られているからだ。このブログはいわば僕のお店みたいなものだ。僕はいつでもここにいるから、時間があればぜひ遊びにきてほしい。読むことや書くことの楽しみをわかってもらえたら、それほど嬉しいことはない。
さて、これからしばらく君たちに向けた特別なメッセージをこのブログで書いていこうと思う。そう思った理由の一つが「草食系」と「ゆとり」という言葉だ。確かに君たちはやさしくなったのかも知れない。だから、タイトルを「縞馬(シマウマ)たちへの伝言」とした。同じ草食系でも羊という言葉は使いたくなかった。僕は君たちは白と黒のもようが混じった縞馬だと思う。縞馬は確かに草を食べる、だけど、その気になったら羊よりずっと速く走れるだろう。見た目だってずっとカッコいい。何で白と黒なんだって?それは君たちが若い純真さをもっているから白、そして、自分でも何かおかしいとか違うと思いながらもわざとそれに気づかないふりをして、社会にのまれていこうとしているから黒だ。でもそれは恥ずかしいことじゃない。それを認めようとしないのが恥ずかしいことであって、縞馬だと思えば縞馬なりにリッパに生きる道を探すだけだ。
昨日君たちの国のリーダーである、「ソウリダイジン」がやめた。これはとってもすごいことだ、なぜかというと、日本のリーダーはしょっちゅうかわってるから。そして、みんなそれに慣れっこになっている。世界からみたらこれは本当におかしなことなのに。でも、これは誰かのせいじゃなくて、みんなのせいだ。そして、君たちが変わらなければこれからも日本は変わらない、そして、いつの間にか周りにいる大人たちみたいに、グチばっかりこぼす人間になる。そして、人生のどこかに悔いをのこす。「悔い」っていうのは、後でああしたらよかった、とかそうしなければよかった、って思うことだ。
僕が君たちくらいの時にも、人生でなやむことはいくらでもあった。そういう時に、(特に僕たち男に)きびしく、熱っぽく語りかけてくれたオジサンやお兄さんたちがいたもんだ。そういう人の言うことは、大きくなってから聞いたらちょっとバカバカしかったり、大げさに聞こえるけども、その時はなんだか胸がワクワクしたものだ。僕はそういうオジサンの何人かに中学生の頃ハマっていて、よく本を読んだから、そのうちの一冊の本になぞらえて、このタイトルをつけた。もともとは「縞馬」じゃなくて、「狼」だった。20年たったら、時代は変わったということなのかも知れない。だけどそれはどうでもいいことだ。君たちは今、君たちの考えで今という時代を生きている。僕はそれを少しでも後押ししてあげたい、そういう思いだけでこれを書いている。僕の周りにだって、大人はたくさんいるから、いろんなことを言ってくるだろう、でも僕はそういうことは気にしないことにした。
なぜなら、こうして若い君たちに直接話しかけることが、自分が一番やりたいことだって気づいたから。そして、僕自身もあとどれだけ生きていられるか分からない人生の中で、悔いを残したくない、そう思ったから。「善は急げ」っていう言葉にしたがってみた。全く昔の人は良いこと言うだろう。
じゃ、これからよろしくお願いする。このブログの右側にカテゴリーというのがある。そこで「縞馬」をクリックすると、君たちに向けたメッセージだけを読めるようになる。他のはちょっと難しいかも知れないから、読むのを止めはしないけど、これほど読みやすくはないから覚悟してくれ。
今のみんなは長い文章が読めなくなっているみたいだから、そういう子は「短編」というところを読んだら短いものばかりでてくる。
伝言2へ
1 6月 2010
昨日突如思いついて、もうすぐスタートする新連載「縞馬たちへの伝言」シリーズは対象読者の年齢層が低いため、カテゴリーを刷新してみました。これまでのコンテンツだけの区分ではなく、エントリーの長さ(尺)別のカテゴリー分けと動画つきのものも分かりやすくするなど、ちょっとした工夫を施してみたつもりです。6月にも突入しましたので、今月からはこれでいこうと思います。よろしくお願いします。(ただ、尺はこれから遡って区分していくので、完全対応にはしばらく時間がかかると思われます。。。エントリー多いのでご容赦ください 苦笑)