ヨブ記に学ぶ教訓

この度新たに中国の携帯市場に関連した法人を設立することになり申請手続きに入った。火曜日からの日本出張が終わる頃にはできる予定である。まだ詳細は説明できないが、すでに身近な人の何人かは知っている案件に関連した法人である。そう、いよいよ実現して関連の米国法人を設立することになったということだ。今はこれまで本件でお世話になったり、迷惑をかけたりした方達へのお礼というか恩返しを準備しているところだ。これは非常に楽しい作業である。

この案件を最初に聞いたのが10月9日、私の人生でも最も恩を受けた人物といえるFさんという方から「頼む」と託された。
内容を聞いたときに、あまりにすごくて手に負えなそうだと思ったが、私には恩を返したいという思い、そしてこれを機に世界平和に貢献できるより強い力を得たいという思いから受けることになった。後はなかったし、どうやったら実現できるかも分からなかったが、実際私には断れなかった。それからは一心不乱に駆け抜けてきたつもりだ。まだ二ヶ月経ってないなんて本当にびっくりだと、北京の同僚に笑って話したくらい濃密なやり取りを繰り返し、無謀としか取られないような努力を続けてきた。 “Where there’s a will, there’s a way”(為せば成る)は私の信条であり、戒めでもある。また、この意思という部分には人的意思を超えるものもあるように感じる。心身的に「死線」を越えそうになるとき、そこに何か人の存在を超えるパワーを感じるというか、それに「すがる」というか「同調したくなる」と感じる時がある。最後は信念、それが全てであり、行動はそれに伴うものだ。信念無き行動は脆弱である。しかし、時にその信念は理解されず、誤解を生み、また周囲を混乱に導くことがある。そんな時こそ人間の真価が問われる時である。正直この二ヶ月間の人生はドラマのようだった。「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったものだ。リアルな「24」みたいだった。勿論まだ終わってないし、私自身にはお金も入ってきていない。が、それが入ってくる仕組みができることが重要であり、お金は後からついてくると思っている。

普段は極力宗教の話はしないようにしているが、そういう気分になったので、(旧約)聖書の中のヨブ記という話を書こうと思った。
よく、「聖書の中で誰に一番共感しますか?」という質問をしたりされたりすることがある(聖書に限らず、例えば三国志でも何でもいいんだけども)。私はよく20代のころ、こういう話をすることがあって、よく「ヨブ」と答えていた。英語でもJob’s Friendsという言葉あるくらい有名な話で、日本でいうとさしづめ、「まさかの友は真の友」の内容を反面教師で語るという感じだろうか。

極力宗教的に偏らないようにかくとヨブはとにかく、正しく善なる人だった。そして富めるものであった。ある日、サタン(悪魔)が来て神を試す。「ヨブほど立派な者はいない」という神に対して、サタンは「持てるものを奪えばきっと彼は態度を翻すであろう」というようなことを言う。それを聞いた神は「彼の全ての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない。」と言いのこし、その場を去る。

ここからがヨブの悲惨な体験の幕開けである。家畜(牛、羊、山羊など)は奪われ、しもべたちは殺され、子供達は事故で一斉に死ぬ。しかしヨブは黙って耐える。私は所詮裸一つでこの世に生を受けたのだから、またそこに戻るまでだと。神様が全て与え、全て奪ったのだから何か意味があるのだろうと。彼は罪も犯さず、愚痴もこぼさなかった。

第一波の攻撃に失敗したサタンはまた神のもとに戻り、こういう。「彼の骨と肉を撃ってごらんなさい。」と、そして神はそれを許すが、命だけは取ってはならないという。

またヨブは悲惨な目に遭う。腫物が全身にでき、かゆくてたまらない。今度は奥さんまでがこういう「まだ神を信じるのですか、神を呪って死になさい」と。しかしヨブは聞き入れない。曰く、「我々は神から幸を受けるのだから、災を受けるのもまた当然である」と。
この時に彼の三人の友達がやってくる。これが俗に言う “Job’s Frinds”である。彼らはもはや見た目では判別つかないほど悲惨な姿になったヨブのために最初は泣き、同情する。ここから、この三人の友とヨブの長い対話が始まるのだが、ここではあまりに長いので割愛する。要略すると、この友はヨブが自身を潔白だと証明するのに対して、「お前に罪があるから災いを受けるのだ」というようなことを言うわけである。そして、ヨブの次のような一言が炸裂するわけだ。「あなたがたは皆人を慰めようとして、かえって人を煩わす者だ」と。ヨブは最後まで信念を変えず、天のみ意のままに死ぬのを覚悟するのである。友人達は「せっかくお前の為を思って言ってやってるのに、何なんだ!?」というように切れるわけである。しかしヨブは与しない。相手の答えが「偽り以外の何ものでもない」、と分かっているからだ。
友人達はますます必死になってヨブを糾弾する。この辺りになると、正直むごくて人間のエゴがむき出しで読むに耐えない(苦笑)ヨブも辛いのだ、が、彼は自身が正しいことを知っており(実際に正しい)、それでも天に身をゆだねようとしているわけである。本人にはいわゆる「良心の呵責」というものがないのだから当然である。

そのうちあまりに頑なヨブとそれを論破することのできない三人に見かねて、若い男が登場する。三人のふがいなさに飽きれたこの男は、これ以上我慢できないと言って、猛烈にヨブを批判し始めるのである。この男(エリフ)もいろいろ一見合理的なことを言うが、その言葉には真実はなく、ヨブは黙って聞くのみである。そしてその時、つむじ風の中から神が直接ヨブに話しかけ、ヨブが神をどう思っているkを直接試すのである。ヨブは神を認め、自身がこの一連の会話の中で神に対して無知なることを言ったとして詫びる。その後どうなるかというと神は三人の友人に向かって怒りの炎をぶつけるのだ。神は三人の友人に、侘びとしてヨブに供え物をささげるように命じ、そしてヨブはその供え物の前で神に祈るのである。自分を責め続けた三人の為に、である。

その祈りを聞き届けた神はヨブの繁栄をすべてもとに返すばかりか、すべての財産を二倍にする。そしてこれまで疎遠だった兄弟姉妹が皆彼の元に駆けつけ、飲み食いしながら彼をいたわり慰める。そして、贈り物をしていく。ヨブは財産のみならず、子供もたくさん設け、全国の内でヨブの三人の娘ほど美しい女はいなかったという。その後ヨブは140年生きながらえて、子孫四代の繁栄を見て、満ち足りて死んでいく。

教訓? もちろん自分が信じる道を行く、ということですかね。腫物怖くてベンチャーできるか、と (笑)。常に動機と目的を正しながらでないといけないのは言うまでもありませんが。他にもいろいろありますよね、きっと。じっくり考えてみてください。温故知新とはよく言ったもので。奥さんが変わらなかったのも興味深い点だったり。今回の件でもますます妻に頭が上がらなくなりました。来年は家でもプレゼントできるように頑張るとします。

立入 勝義 (Katsuyoshi Tachiiri) 作家・コンサルタント・経営者 株式会社ウエスタンアベニュー代表 一般社団法人 日本大富豪連盟 代表理事 特定非営利活動法人 e場所 理事 日米二重生活。4女の父。在米歴20年以上。 主な著書に「ADHDでよかった」(新潮新書)、「Uber革命の真実」「ソーシャルメディア革命」(ともにDiscover21)など計六冊を上梓。

1件のコメント

  1. dadao
    2009 年 12 月 8 日

    ヨブか。。。

    ヨブに限らず、その人に非がなくても不条理や不遇を被ると感じる人々を我々は数多く知っています。彼らはその中で魂を洗練して自分たちよりも高次元で人生を送っています。

    そんな姿を見てまだまだだなと思わされます。

    本当の強い心、自分もいつか到達したいです。

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