出版業界が電子出版を救う、という観点

これまでは、門外漢の立場から電子出版と既存の出版業界の関わりについての意見を述べてきたのだが、勿論出版業界にも素晴らしい功績があるわけで、それらを一気に否定する必要もないし、出版業界の中にいる素晴らしい人材と彼らの経験がなければこれから電子出版市場自体が成立しなくなる危惧もあるはず。先日「誰が電子出版を殺すのか?」というエントリーを書いたらあちこちで反響があったようだが、これは何も出版業界そのものに引導を渡している訳ではないし、私にそんな権利があるとは到底思えない。中抜きでなくなるべきは構造的に不要となった「ミドルマン」であって、「中身」ではない。

というわけで、今回は少し外からみた観点での出版業界の良い点を書いてみたいと思う。

まず、第一に出版業界には「活字」や「知識・教養」といったものについての能力やこだわりが尋常ではない人たちが溢れている。今ではもちろんコンピュータでも校正作業ができるわけで、昔に比べればその需要は減ってきた(でも逆に最近はコストカットのせいか、紙出版物でも以前見なかった誤字や脱字を多くみかけるような気がする)のかも知れないが、実際に書き物をしている立場からすると彼らの意見や知識は確実に参考になる。校閲作業なんかは事実の検証などをきっちり行っていくわけで、所詮ネットでの調べ物くらいしか頼ることのできない(私のような)にわかブロガーでは到底太刀打ちできないような知識のインベントリーをもっているし、漢字や修辞にも詳しい。彼らにとっては当たり前なんだろうが、これは素晴らしいことだ。(最近では日本にいる編集チームと会って、本筋の話の合間に歴史や文学の話をするのが楽しみなくらいだ)大体メールのやりとりがスムーズなのが助かる(笑)
若者を中心に起こっていると言われている、いわゆる「活字離れ」は要は国語(あるいは元々日本語がもつ美しさの部分)に対するこだわりの部分が希薄化しているということが一つだと思うが、出版業界はそれを頑なに守っている人たちだ)国語人間の私としてはただ賞賛するばかりである。

次に、彼らはそもそも出版をビジネスと割りきっていない節がある。かと言って、よく使われるような「慈善事業」をやっている認識でもない。傍から見ると彼らは「文化事業」の旗手であり、文学はどこまでいっても商売のタネというよりは「芸術」なのだろう。この観点があるから作家は救われる。数カ月、時には数年もかかって書き上げるような作品は費用対効果を考えてできるものではない。私のレベルですら、例えば「このブログを書くのに20分以内だと黒字だが、30分以上かけると赤字になるだけだ」などの損益分岐を考えていたらとてもじゃないが(特に創作系の)執筆なんてできない。(もちろん通常の作家にあるような締切りというのはニュース性を重んじるソーシャルメディアでは重要な訳だからそういうプレッシャーはある)文壇バーとかいう言葉があるが、(作家のような)芸術家はつねにパトロンに支えてもらって成り立ってきた。これはファインアートの世界を見ても明らかな通りだ。電子出版と声高に叫んでも、このような存在がいない限り、ほとんどの作家は作品を作り続けることができない。というか、むしろ新人なんて生まれることさえなくなってしまう可能性もある。ダイヤの原石を磨き上げる仕事をしてきたのは編集者であり、時折でてくるミラクルヒットで過去の打率を一気に帳消しできる可能性を知っているし、そういう存在が輝くきっかけをつくることに生きがいを感じている方々も多いだろう。この点で出版社の編集チームはある意味ベンチャー起業でいうところのVCみたいなものといってもいいのかも知れない。(費用対効果を考えずにただ可能性を信じて投入してくれるのだから、支援を受ける方としては有り難い)また彼らはとにかく「気が長い」ように見える。膨大な数の作品に目を通して、あぁでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返してきたのだから当然なのかも知れないが、どちらかというせっかちな私は感嘆を禁じ得ない。

もう一つ言うと、彼らには作品の売れ行き(結果、数字)というものは「なるようにしかならない」という、いわば自虐的な諦めを伴なう「出たとこ勝負」の気質が強い。過去に幾多の成功と失敗を通過してきた業界ならではの話なのだろうが、これは、良い点でいうと「奢り」がないということであり、裏を返すとそれだけ「無責任」である。しかし、なんともこの「無責任さ」が憎めないし、それで私のような駆け出しの若造も救われている。流行りを追いかける者もいれば、そうでない者もいるだろう。しかし、彼らは最後の部分は売れることを信じるのみで、後は結果を市場に委ねる。どんなビジネスも同じじゃないかと言われるかも知れないが、規模が大きくなってくるとビジネスでは「不確実性」をどこまで消し込むかを大事にするため、やっても採算が合いそうにないビジネスには手を出さず、他の手段を探すという選択肢に終わることも多くないだろうか。(メーカーが新製品を出す時にはこういうことがあると思うが、出版業界はこれまで尋常じゃない数の書籍をそういう風にして生み出してきたわけだ)

しかし、この出版業界においては、どんな作家も最初は無名の新人である。だから、誰かがそれを信じて危険牌を通す覚悟をもたなければならない。結果的にはそれが通る場合もあるし、すごいダメージを負う場合もある。しかし、彼らはきっとそれを楽しんでいるんだろう。(麻雀好きな人も多いに違いない 笑) 筆者も資金調達などで経験したことだが、昨今日本ではVCが機能しづらい状況にあると思う。これは日本においてはそもそも起業精神があまり根強くなく、新規のビジネスモデルや人物の「目利き」という部分に長けた目をもつ人材を養うことが難しいからだとも言える。しかし、この点で出版業界はいわばアナログなVC(ベンチャー・キャピタリスト)、パトロンである。そのリスクを負うことを厭わない姿勢には評価される部分も多いだろう。

まだまだ先の見えない電子出版業界、本当にミリオンセラーがでるのかと多くが固唾を飲んで見守っているのだろう。私の担当編集者は「本当に優れた作品はマーケティングからは出てこない」という明言を放った。そこにあるのは書き手の才能とそれを支援する編集者の共同作業であり、両者をつなぐのは「良いコンテンツを絶対に創り上げる」という信念だ。「5時間で1400部以上売れた電子書籍」という記事が大きな見出しであちこちで取り上げられていたが、これからどんどん可能性を信じて産声をあげようとする若手クリエイターたちの芽を潰すことだけは避けてほしいと思う。今後はこれまでにどのような業界にいたかは大した問題ではなく、ある意味真の「業界人」たる資質をもった者だけが今後の電子出版業界を正しい方向へと導いていくことができる。市場の黎明期にはスーパースターが輩出するものだから、それを楽しむのもいいだろう。

立入 勝義 (Katsuyoshi Tachiiri) 作家・コンサルタント・経営者 株式会社ウエスタンアベニュー代表 一般社団法人 日本大富豪連盟 代表理事 特定非営利活動法人 e場所 理事 日米二重生活。4女の父。在米歴20年以上。 主な著書に「ADHDでよかった」(新潮新書)、「Uber革命の真実」「ソーシャルメディア革命」(ともにDiscover21)など計六冊を上梓。