ウィキペディアの裏側 ~ウィキペディアンの憂鬱 <補足>


現在執筆中のウィキペディアンの憂鬱という小説は、ストーリー形式でウィキペディアについての内容と執筆(編集)方法を伝えながら、その裏と闇の部分についても描くという意欲作である。これまでビジネス書2冊しか出してない私にはなかなか重たいものであるが、もう長い間構想を温めてきたものであるので大事に書き進めているところだ。(出版時期や編集方針との兼ね合いもあり、ブログには少しずつしか更新しておらず、実際の本とはかなり内容が異なるだろう)

僕は本作を通じて、このウィキペディアなる存在について、広く一般の方々に認知をしてもらい、できれば客観的な視点から目を光らせて頂きたいと考えている。
緊張感を欠いた民主主義が衆愚政治に陥りがちなように、ネットの世界では特にその匿名性故に恣意的な情報誘導が行われることが多い。
実名か匿名か、というのはフェイスブックやツイッターを中心に行われている議論だが、これとは一つ下のレイヤーに匿名か記名制か、という議論があると思う。
ここで重要なのは、この(実名と異なる)記名制というシステムには情報発信に関する「履歴」が必須だということだ。ウィキペディアでは匿名での編集にはIPアドレスが表示されることになっている。つまり、これはアクセス場所を変えれば同一人物とは特定されないということだ。一方、記名制の執筆には他者とは異なるID(ハンドル)の取得が要求され、これはすなわち編集履歴の蓄積と開示を意味する。(場合によったら、これが粘着荒らしと呼ばれる事態を招くことにもなる)

参考:Wikipedia:進行中の荒らし行為

一方、下記のような行為は荒らしとはみなされないべきだとされている

(一部抜粋)

新規参加者のテスト投稿
新しいユーザが「編集」ボタンを見つけると、本当にページを編集することができるかどうかを試したくなり、それだけのために記事を編集することがあります。これは荒らしではありません…
初心者による、ウィキ・マークアップやスタイルの学習
一部の初心者ユーザは、wikiベースのマークアップ(書式)を習得するのに時間を要し、時に外部リンク、内部リンク、また特殊文字を作るために試行錯誤することがあります。
NPOV違反
既にある記事や、編集しようとしている内容が中立的な観点によるものかどうかはご存知の通り難しい問題です。時には熟練した投稿者でさえ、中立的な観点から外れる内容の編集を行ってしまうことがあります。
大胆な編集
投稿者の多くは時折、記事を改良するために大幅な編集・改訂を試みる事があります。あなたが書いた文章の大部分が除去される、ノートページに移動される、または編集の差し戻しがなされると、荒らしのように感じられるかもしれませんが、それは誤解です。
人為的なミス
時折、ユーザは正確であると確信できない内容を記事に加えることがあります…
いじめ・頑固・編集合戦の繰り返し
一部のユーザは、ノートページで話し合いを望んでいる他のユーザたちと合意できないまま、他のユーザに反対されている内容や方法での編集を繰り返し行うことがあります…
嫌がらせと個人攻撃
ウィキペディアには個人攻撃をしてはならない明確な方針があります。他のユーザへの嫌がらせは許されません。利用者ページの破壊などの嫌がらせは、完全な荒らしになります…

そして、メインのエントリーページではなく、人目につくことのないノートの部分では時折ウィキペディアン同士の激しい編集合戦の攻防が見られることになります。ここには、多くのドラマがあります。全て活字だけで進行するので、追いかけるのに抵抗がある人は多いでしょうし、興味をもたない人が大半でしょう。
ですが、これらを見て、彼らのやり取りを見物してみることにより、ウィキペディアについての考え方は大きく変わってくることでしょう。良くも、悪くもです。
冒頭にも書きましたが、僕はこのウィキペディアという大規模な集合知プロジェクトが、正しく機能していくには多くの人からの正しい認知を得る必要があると考えている。そして、この難解で深淵で、時にはごく軽薄な世界を描写するにはストーリー形式が一番だという結論に達したわけである。

と、こういうことだけを言っても、具体的にどういうやり取りが行われているのかについて、ほとんどの人はノーアイデアだと思うので、ここでは過去に起きた大きな議論の内、何人かの有名人物についてのエントリーを紹介したいと思う。もちろん、ご存じの方も多いとは思うが。ウィキの恐ろしいところの一つは、先程の記名制についての記述と被るのだが、その履歴がずっと残ることである。

まずは アゴラブックスの池田信夫氏、肩書きに始まり、いくつかの記述が「不正確」だということで、ご本人らしき方がウィキに登場して怒りのコメントを掲載されたことで話題になった。

池田信夫 エントリー (表)
池田信夫 ノート (裏)

ご本人とおぼしき方のコメント

私の名誉に関することで、こういう愚劣な議論が行なわれていることに憤りを感じる。「経済学関係の業績はない」って私の論文を読んで書いているのか。私が「経済産業研究所」に勤務していたのはなぜなのか、説明してみろ。池田信夫 2010年1月22日 (金) 16:11 (UTC)

前のエントリーで、(少なくとも日本版の)ウィキでは本人が登場して情報を訂正するのは差し支えないとされていることを伝えたのだが、一般的には本人がブログや公式HP上でそれについて触れ、その後ウィキのノートで同じ主張をする、という方法が取られることが多くなっているようだ。もちろんこれは本人を特定するのが難しいことによるのだが、有名人の方はウィキに対する正しい対応を知らないと泣き寝入りする羽目になってしまうので、間違いがあれば積極的にそれを修正して頂きたい(Wikipedia:ページの編集は大胆に)。もしくは、身近にいるウィキペディアンに助けを求めることだ。もっとも、ウィキペディアンが皆バッジをつけているわけではないので発見するのがそもそも難しい。(特に60名強しかいない管理者を探すのは至難の業だろう)

池田氏も、本件はブログでコメントしている。
2ちゃんねる化するウィキペディア

次に、「バカの壁」で有名な養老孟司教授

養老孟司 エントリー (表)
養老孟司 ノート (裏)

そして、何故かここに脳科学者の茂木健一郎氏が登場してくる。どうやらあまりに不正確で偏った記述が多いので「看過できない」事態となったらしい。

ブログエントリー 火山爆発 (茂木健一郎 クオリア日記)

(養老教授に関する下りを一部抜粋)

wikipediaに対する私の不満には、伏線がある。

今でもずいぶんひどいが、一時期の養老孟司さんに関する記述は全くのデタラメで、しかも底意地の悪い偏見に満ちており、無茶苦茶だと思っていたが、私が口を出したら余計混乱すると思って放っておいた。

その後、ノートであまりのデタラメぶりが指摘されて一部修正されたが、今でも公平を欠く記述であることには変わりがない。
英語版のwikipediaではあり得ない事態であろう。

しばらく前に、「バカの壁ハウス」を訪ねた時に、二人で庭の端に立っていた時、養老さんが昆虫の分布に関する研究についてお話されて、その後、「ぼくにしては珍しく論文を書くことにしたんですよ。ははは」と言われた。
何だか、ちょっと寂しそうだった。
それで、ボクは、養老さんはひょっとしてwikipediaの記述を読んでいるんじゃないかと直覚した。

養老さんに、そんな思いをさせていい気になっている輩どもが、許せないと思った。
どんな人でも、出っ張っているところと引っ込んでいるところがある。
養老孟司という人には美質や叡智があるから人気があるのであって、現在のwikipediaの記述は、著しく公平さに欠けている。

そして、当人の茂木氏のエントリーもなかなかすごいことになっている。過去ログが2ページにも及んでいる。

茂木健一郎 エントリー (表)
茂木健一郎 ノート 過去ログ1 2007年1月11日~2009年7月9日 (裏)
茂木健一郎 ノート 過去ログ2 2009年8月18日~2010年4月10日(裏)

元アスキーの西和彦氏の項目も、本人が編集合戦に加わり、とんでもないことになった例として記憶されている。

西和彦 エントリー (表)
西和彦 ノート (裏)

そして、その挙句の果てに彼がブログでウィキについて語ったのがこちらのエントリー その名も 「Wikipediaはネットの肥溜 – 西和彦」

何年か前にWikiとネットで喧嘩した。売り言葉に買い言葉で、どんどんエスカレートした。今でも僕の項目は編集にロックされている。知り合いの人は、自分でWIKIを書くのが良くないということで、友達に頼んで自分のWIKIを書いてもらっている。ほとんど自作自演の茶番劇みたいなものである。僕は、それは偽善であると思った。書くなら自分で書こうと思った。

「そんなに文句があるならマスコミに言ってみろ」と管理人か誰かに言われたので、週刊誌やテレビ局、NET NEWSなどに、いかに日本のWIKIを運営している人たちが腐っているかを話した。その結果はいまでもグーグルに出てくる。彼等は、そんなにニュースになるとは思っていなかったようだ。

その次に、「本国のWIKIの代表に言いつけてみよう」と、「シンポジウムするから来ませんか」と誘ったら、出てくれた。話を聞くと、アメリカの代表はまともな人であった。私はそのときに、変なのはWIKI本体ではなく、日本のWIKIを運営している人たちだということに気が付いた。そして、馬鹿らしくなって、そいつらとやり取りをすることをお休みしている。グーグルした結果を引用するだけで記事を書く人たちなので、中身が間違っていて、浅い、薄い、軽すぎる。今度、挑発されたら、また受けて立ってもいいかなと考えている。

僕たちの世代は新聞や本の「活字を信じるな」といわれて育った世界である。それが今ではネットになった。「ネットに書いてあることを信じている人はいない」と思うのは僕だけではないと思う。いいWEBもあれば、悪いWEBもある。今のネットは単一のWEBの全体集合だけでなく、WEBとGOOGLEがセットになっていわゆるWEBとして利用されている。そしてミニグーグルとミニWEBがWIKIではないか。だからWIKIはどこまで言ってもマイナーな存在であり続けるであろう。

問題はWIKIがPEDIAという接尾を使って、いわゆる百科事典のようなふりをしていることにあるのではないだろうか。その意味で、僕は昔2チャンネルのことを「便所の落書きみたいなもの」といったことがあるが、WIKIは「真実と嘘と無知と偏見と嫉妬と虚栄が混じったネットの肥溜みたいなもの」ではないだろうか。そして、それが日本にだけ起こっている現象であるということが残念である。

西氏は少しエスカレートしているきらいがあるが、僕もウィキはもう自分のことを「百科事典」と呼ぶことに問題があるという点では認識を同じくしている。
これだけの知名度と多くの支援で成り立っているウィキはもはやウィキであって、それ以外の何者でもない。どちらが上とか下とか、そういう問題でもない。百科事典だとかいうのは逃げ口上ではないか、あれだけ堂々と資金調達しているのだから、その姿勢を保てばいい。

これらは、冒頭の存命人物の伝記の「議論のあった存命人物項目」というところのほんの一例に過ぎない。ウィキはある意味毎日が戦争である。

そして、上記に出た方たちの何人かの共通認識が、「日本のウィキの特異性」である。もしかしたら日本ではウィキも「ガラパゴス化」しているのではないか?
そういう視点も、「憂鬱」では供給したいと考えている。 

どうだろう、ウィキについての見方が少し変わってきたのではないだろうか?(そんな方には、「ウィキペディアンの憂鬱」をご一読することをオススメします 笑)


フェイスブックやツイッターだけじゃない、ソーシャルメディアの今と未来について知りたい方はこちらをどうぞ。
あなたの周りの「プロ」は実は本当のソーシャルメディアを知らない、かも…

立入 勝義 (Katsuyoshi Tachiiri) 作家・コンサルタント・経営者 株式会社ウエスタンアベニュー代表 一般社団法人 日本大富豪連盟 代表理事 特定非営利活動法人 e場所 理事 日米二重生活。4女の父。在米歴20年以上。 主な著書に「ADHDでよかった」(新潮新書)、「Uber革命の真実」「ソーシャルメディア革命」(ともにDiscover21)など計六冊を上梓。

1件のコメント

  1. 通りすがり
    2016 年 5 月 4 日

    海外も大して変わらないですよ。
    方針だガイドラインだを作っているのもそういう極一部の人たちが多くて
    しかも、ほとんどが英語版から翻訳しただけのもの。
    それを合意されたものだと強弁している
    そしてそれらは、都合が悪い執筆者らを追い出すための道具にしかなっていない
    ここ10年、よく仕事してるなと思うユーザーをみると
    なぜかアカウントが停止されている
    誰かに追い出されたみたいで
    対応をみてもそれほどおかしいとは思えないにも関わらず
    一方的に追い出されているようですね

コメントは受け付けていません。