ZEN ダイエット

禅のコンセプトはいろんなところで有効だと思う。普段は英語について話すことにしているが、今回は少しテーマを変えてダイエットについて話してみたい。柔軟に物事を理解するという癖をつけるのは非常に大事なことだ、それはすなわち思考の多様性を意味し、つきあう相手の幅を広げてくれ、よって国際社会での協調性や競争力の強化につながる。その力をもっていて損をすることはないだろう。

視野を広げるとはどういうことか、という観点で読んでいただきたい。

私は小学生の頃まではすごく背が低かった。記憶では1年生の時に117cm、6年生の測定の時に147cmだったと思う。弟は当時から背が高く、(今では190cm近く、本人いわくまだ伸びてるとか。私は人生でほんの数年間だけしか弟より背が高かったことがない)6年生の時に165cmくらいあったのではないか。中学校で野球部や陸上部に入るようになってからぐんぐんと伸びて今の身長(173.5cm)になったのが高校3年生のときくらいだったと思う。体重はというと、自分が思うベストが63.5kgくらいで、この体重は恐らくその後の人生を通じてマックスでも10kg増えていないと思う。下にはもちろんほとんど下がったことがないので、1,2kgくらいか。

日本のBMI的にはいたって標準で、健康状態もすこぶる良い。が、アメリカに来るとやせている、やせていると言われる。特にカリフォルニアではまわりに太った人が多いので仕方がないかも知れない。小さい時から筋トレマニアだったので、体脂肪率は低く、一桁であることも多かった。(今は知らないが、それでもかなり低いはず) 最近はゴルフと腹筋・背筋のトレーニングのおかげで、またかなりしまってきてベルトやズボンを買いなおさなければならなくなった。で、必然的に私はよく周囲から「太らない体質だ」と思われているようだ。で、たとえば周りにいる肥満気味の人(失礼)からダイエットのコツなんかを聞かれることは滅多にない。なぜならみんなの頭の中では使用前→使用後みたいな人には経験談があると思っているが、もともと痩せている(といわれるとなんとなく嫌なんだが)人にはそんなアドバイスがない、違う世界の人だ、と思ってるからではないだろうか。

しかし、である。例えば頭が良くなりたいと思ったら頭が良いと自分が思う人、周りの頭が良い人が「あの人は頭が良い」という人のところにいって参考になるアドバイスをもらえばいい。おしゃれな人になりたかったら、周囲の人がそう褒めるような人のところにいって勉強するのが普通ではないか。それができないとしたら、考え方の中にも大きな落とし穴がある可能性がある。見えない「前提条件」が問題なのかもしれない。例えばこの場合は「立入は太らないし、太ったことがないからやせ方なんて分からない」という前提条件があるように思う。だから相談しても仕方ないのだ。でもちょっと待って欲しい。それは本人に確認したことか、事実なのか?勿論生理学的に体質による個人差というのはあるのは認めよう。いくら食べても太る人もいるかもしれないし、逆にそうではない人もいるかも知れない(体質というよりは虫だったりするかも知れないが)。

あなたの考え方の中に他人との間に境界線を設けているとしたら、それは大きな問題かも知れず、ひょっとしたら非常に大事なものを得るチャンスを失っているのかも知れない。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という。思い当たる人はこの下に書くことをよぉく読んで考えてみて欲しい。よく「白鳥の水かき」の話があるように、表に見えることと裏にあることはまったく違うかも知れない。見える部分だけを見て判断すると大きな落とし穴にはまる可能性があり、それが機械的に反復されてるとすると、そうでない人との間に自動的にすごく大きな違いを生み出していくことになりかねない。

私だってそれなりに太ってた時期がある。マックスだったのはアメリカに来てから1年以内くらいの時。お金がないのにボランティアとかしてたから、食べるものを節約するために毎日のようにドーナツ(当時は今よりもっと甘いものが大好きだった)とソーダ(いまだにストレスが溜まると飲んでしまう)を昼に食べてた。そしたらやはりどんどん太ったのだ、それなりに運動していても、である。所詮は質量保存の法則にしたがっているわけで、インプットがアウトプットよりも多ければやはりどうしても太る。そんなの誰だって同じことだ。この1ヶ月というもの、中国絡みの案件を必死にこなしている中で出張が多く、あまりに忙しくなったので大好きなゴルフをする時間が減り、練習やレッスンにも出れなくなっていた。そしたら、である、ある時ベルトがちょうどいいことに気づいた、というよりむしろ少しきつい。(ズボンはちなみに30インチのものが多い) よく身体をみると、こないだまではきれいに分かれていた自慢の5パック(6じゃないのはゴルフが片側通行のため、左右が微妙に非対称だから)が以前ほどくっきりしなくなっている。あわててまた腹筋や素振りに精を出しはじめた。なんとかベストの状態を維持したいからだ、これはいい状態になるとでてくる心理だと思う。

ここからが確信だ。少し長いが、要旨をつかんで頂きたい。

では、なぜ私は普段太らないのか?実はこれには私なりの持論がある。私も普通に欲があり、欲で身を滅ぼしかけたことも何度もあるし、今でも戦っていることが多いが、一つだけちょっと他人に自慢できると思っていることがある。それが「食欲の管理」だ。例えば私は朝食を食べない主義である。かと言って、ずっと食べないかというと、例えば子供たちと時間を共にしたい時とか、朝早く起きたときとか、出張している時とか、必要な時は食べるようにしている。それでも基本はジュースや果物、おかゆにトーストといった軽いものだけ。1週間に1回か2回くらいしか食べないし、多くの場合、実は昼ごはんも抜かしてしまうことがある。それは仕事で忙しくてついついタイミングを失うことが原因だったりするので意図的ではないのだが、それでもあまり空腹感を感じないのはお茶や水、ジュースなどの水分を多めにとるからかも知れない。たまに夜の11時くらいにお腹が減って、「おかしいな、こんなに食欲にコントロールされるとは?」と思ったら朝から何も口にしてなかった、とかいう笑い話もあった。なので、よくあるような「空腹が原因でイライラしている」ような状態の私を他人が見ることはほぼないだろうし、恐らく嫁も同意してくれると思う。

ここまでは個人差かも知れない。でもこれには実はまだ理由がある。まず私には食べ物の好き嫌いがまったくと言っていいほどない。なので外国に行っても結構なんでも食べられるほうだ。(中国で虫とかのゲテモノがでたときは少し辟易したが)もちろんまずいものよりは美味しいもののほうがいいに決まってるが、小さい時に貧乏した私にとって食べ物は家族の勤労の産物であり、それに対して不平不満をいうなんてのはもってのほかだった。実は小さい時は「据え膳食わぬは男の恥」という言葉を「出たものは全部食べないと男がすたる」と勘違いしてたくらい、残すのも大嫌いだった。(最近は健康を重視して、無理をしないようにすることも多いが)また、周りに母、祖母、叔父と料理に長けた人が多かったため、どの料理も美味しかったので、不平をいう必要すらなかった、ということもある。嫁もまためちゃくちゃ料理が上手なので、これも大感謝だ。おかげで私自身は料理をすることがほとんどなく、したがって、文句をいう権利すらないと思っている。

そして、もっとこれを決定的にしたのが、20代前半で経験したアフリカでの暮らしであった。もともとアフリカ大陸の飢餓の問題に関心があった私は念願かなって、20代前半で一度エチオピアのアジスアベバで3ヶ月ほどボランティア兼学生をしていた時期がある。その時に現地でみた状況は本当に衝撃的だった。アジスはアフリカの中でも裕福なほうだと思うが、富めるものと貧しいもののギャップがあまりに大きい現実を直視するのが難しいほど、壁一枚でまったく違う状況が存在していた。自分が経験したことのないような「貧困」の構造があったのだ。結局は大学へのトランスファーを受け入れられず、その間に合格通知のきていたUCLAに行くことになりLAに戻ったのだが、あの現実はそれ以来私の心に焼き付いている。そして、UCLAで地理・環境学という変わった学問を専攻した私に教授はこういうのである。「飢餓というのはそれ自体が問題なのではなく、地球上には十分に食料はある、単に分配だけの問題なのだ」と。その通りだ、アフリカの人が一般的に消費するエネルギーは先進国のアメリカのそれと比較すると実に30分の1だという。なのに世はともすれば、人口問題を「人口」の問題で解決しようとして人が多くなるのが問題だという。あたかも地球に定員があるかのように。

地球上の人口問題といわれる問題は実は「天然資源」の問題であり、「環境破壊」の問題であることが多い。エスキモーやアマゾンのインディアンなど自然と共に暮らしている人口がどんどん増えても、現地のエコシステムに影響を与えるくらいで世界規模での影響を与えることはまずない。むしろ自然と共生している彼らの間には自浄作用も働くし、何より衛生などの問題で平均余命が短いではないか。成人を迎えずに死ぬ子供たちのどれほど多いことか。私は以前はシリアルなどの朝食を食べていたのだが、なんとなく、このアフリカでの暮らしが終わってから食べないことが増えてきたように思う。今では食べないのが普通なので、家族も私が朝食をとらなくても何も言わない、また、食べていてもなんとも言わない。身体にききながら必要なら摂るようにしているだけだ。健康もすこぶるいいのだから、誰に文句を言われる筋合いもない。(これでも十分普通の人の何倍も働いているという自負がある)肉食じゃないアベベだってマラソン走れるわけだし、コンセプトって怖い。

で、話をダイエットに戻そう。言いたいことは、私から見ると実は俗にいう「太っている人」には共通点があるように見える。それは運動量とか、体質とかというよりは、その「食欲」にあるのではないかと。Abundanceという英単語は潤沢に何かが存在する様を意味するが、このAbundanceというコンセプトに満ちていると消費(アウトプット)と生産(インプット)の間に無駄がなく、自然に流れるようになる。いい例は空気だ。空気はタダで、周りに溢れている。が、だからといって、みんな我先にがんがん吸ったり、あるいは無駄をしないように節約したりということはしないはずだ。これはつまり、必要な分だけを摂取するというのが自然になっているからだ。私はこのコンセプトが非常に大事だと思う。(少しそれるが、例えば世にたくさんいるお金持ちの人たちにとって、きっとお金はこういうものなのではないか。だから無駄に使おうともしないし、必要な時には必要なだけ引っ張って使うことができる。なので必然的に溜まっていくのであろう)

人間が社会で生きている限り、自分勝手な行動にはかならず代価が伴うと思う。これを「欲」という。そしてその欲を実現するためには努力が必要である。向上心や成功に対する欲といったものは、前向きなので、ここでの努力はポジティブな対価を生む。が、例えば「自分だけが美味しいものをたくさん食べたい。人にはあげたくない」といった気持ちでいると、その代価は例えば食欲の増加であったり、浪費であったり、周囲に対する不敬だったりするのではないか。逆に相手に施してあげたいという気持ちでいると太ることはなさそうに思うのだが。(私の母はそういう意味では、本当に食べない人だったし、今でも調理師として他人に料理をつくりつづけている、おかげか彼女が太っているのを見たことがない。我が家が親子で太るという問題を抱えてないのは「教育」の本質と言えるかも知れない) 勿論妊娠や出産などの事由で体重が変化していくことについては、私はまったく異論がないし、そもそもこの話の本意は「太るのはよくない」ということではないので誤解なきよう。アメリカの社会を見ていると、無駄に健康に悪いものをたくさん食べて、その結果太るのを抑えるために、さらにお金をつかってフィットネスジムに通うという悪循環に陥っている人のなんと多いことか。「健康は第一の資本」であり、健康を損なうとこの医療費の高い国では非常に高い代価を支払うことになるし、なにより働くこともままならなくなる。健康であることはすばらしいことであり、五体満足であることはすばらしいことだ。自分自身に敬意を表せない人は他人にも敬意を表せないのではないか。

もうお分かり頂けたかと思うのだが、今回のテーマは「前提条件を疑う」ことの重要性と、「隣の芝生が青い」背後の努力である。これがきっかけに、ダイエットのみならず、読者の人生に少しでも気づきを与えることができたらそれにまさる幸せはない。長文におつきあい頂きありがとうございます。

立入 勝義 (Katsuyoshi Tachiiri) 作家・コンサルタント・経営者 株式会社ウエスタンアベニュー代表 一般社団法人 日本大富豪連盟 代表理事 特定非営利活動法人 e場所 理事 日米二重生活。4女の父。在米歴20年以上。 主な著書に「ADHDでよかった」(新潮新書)、「Uber革命の真実」「ソーシャルメディア革命」(ともにDiscover21)など計六冊を上梓。