ソーシャルメディア革命

先ほどのエントリーでは日本でソーシャルメディアが成り立つのを阻む大きな理由を説明した。しかし、敢えてそこではソーシャルメディア自体の定義をしなかった。こちらのエントリーでは定義はしないまでも、ソーシャルメディアの意義とその革命の内容ついて詳しく説明したい。

ウィキペディアによるとソーシャルメディアとは「ソーシャルメディアは、誰もが参加できるスケーラブルな情報発信技術を用いて、社会的インタラクションを通じて広がっていくように設計されたメディアである。」と定義されている。英語版ではこれはもう少し詳しく定義されているが、はっきり言ってまだ成立過程にあるこのコンセプトの定義を議論するのはきっと偉い専門家の先生の仕事であって、私のような一介のブロガーの仕事ではない。
ここで重要なのはソーシャルメディアというものがインターネットをインフラとして、人間同士が相互に作用しあうことによって広がっていくメディアであり、情報発信の主体はこれまでのように大手ではなくて個人であるということを理解することだろう。(ここでもまだ情報発信自体は大手でそれを伝えるのが個人なのか、あるいは情報発信自体を個人が行うのか、という部分で曖昧な部分は残されているのだが)

これまでにもきっとソーシャルメディアを語った本やブログはたくさんあっただろうが、ツイッターの誕生と繁栄は多くの識者にとっては晴天の霹靂であっただろうから、定義もまた切り替わっているに違いない。つまり、定義なんてリスクを恐れる者が後付けでやればいいことである。

では本題

まず筆者はソーシャルメディアを(既成概念でいうところの)マスメディアと対極に位置するものだと仮定する。
そして、ソーシャルメディアのインフラとしての本流はやはりネットである。(定額使い放題、時には無料のインターネットはいつだって弱者の味方だ) マスメディアでは情報の選択はあくまでも「大衆」をにらんで大手メディア側で行う。民主主義で行われているはずの選挙の結果である政府の施策が、総じて国民の総意とは違うところにいってしまうのと同じように、マスメディアで取り扱われる記事は必ずしも国民が知りたいところを反映しているとは限らない。というか、マスメディアの奥義は「それを知りたかったんだ!」と国民をして思わせるところにある。そこには国民が知りたくない情報というのは必然的に書かれなくなる、つまりなんのこっちゃない「大本営」の発表と何も変わらない。日本は高度経済成長を遂げたものの、島国根性を抜け出しきれない日本は今、それを全面的に認めて「ガラパゴス島民」としての存在意義を肯定するか、あるいはこれまでみたいに「なんちゃって開国論者」になるかどうかの選択を余儀なくされている、ように筆者は感じている。(誤解してもらいたくはないのだが、この点で筆者はそのような島国根性を抜け出しきれない日本人の代表として、海外在住という視点で論拠を展開している)

で、ソーシャルメディアだが、大きなポイントとしては下記のような性質をもっているのではないか。
(*紙媒体とネットが違うのは明らかな話なので、テレビとどう違うかを理解すると分かりやすいと思うので、今回はテレビや大手ポータルサイトと比較してみる)

1 ソーシャルメディアはマスメディアの対極に位置する。
- 繰り返しになるが、大事なことだ。例えばテレビはテレビ局側が配信内容の全てを決める。ソーシャルメディアは個人が情報を配信し、それがどうスケーラブルに展開されていくかもそれぞれの個人次第である。(ただし現時点では主要収益モデルという点においては、テレビもソーシャルメディアも広告か課金型かというような同様の選択肢しか存在していないようだ)このため、実は例えば読売新聞が運営するソーシャルメディアサイト、なるものは存在し難い。そもそも両者の存在自体が相反しているからだ。
この点でソーシャルメディアがそれぞれの国で成功しているかどうかは、大手メディアと(資本的に)独立して存在する大手ソーシャルメディアサイトがどれくらいあるかを数えるというのが判断基準の一つとなるとも言える。(TECH CRUNCHがAOLに買収された事例は、アメリカではステージが一つ先に進んでいることを示唆するものだ)

2 インターネットに始まり、インターネットに終わるデジタルメディアで一貫したメディアである。
- 電子出版との関連性はこれまで筆者が述べてきた通りだが、紙媒体とはあまり連動しなそうであるし、CMにしても店頭への誘導というよりは、オンラインショッピングへの誘導につながるのが主体である点でネットインフラに特化したメディアである。
テレビはオンラインショッピングよりは実店舗での購買に誘導するのが主であり、購買衝動は購買活動には即時に結びつかないため、継続的な広告活動が重要になってくる。しかしソーシャルメディアからオンラインショッピングへの誘導が起こった場合はむしろ購買は即時型になる可能性が高い。

3 情報を発信するのは「個人」もしくは「個人の集合体」であり、大「組織」ではない。

- ソーシャルメディアは実名、あるいは固定されたハンドル名での記載が原則である。これは権威のある大手メディア媒体とは異なり、個人がそれぞれファンを獲得していく必要があるからで、特に黎明期では必須である。テレビにおいては当然「顔出し」が原則であるので、この点では似ているが、あくまでもそこに登場するのはテレビ局で勤める人間であり、ソーシャルメディアでは記者はフリーランスの雇われかその媒体の運営主自身である。当然大きな責任問題が生じた場合には大手ほどの体力がないため、即時死亡(信頼失墜)もありえる。これは記者としてはある意味当然のことなのだが、日本では雇われ記者が多すぎて、このようなリスクを取ることに慣れていない。(また自由すぎるウェブメディアのフォーマットとルール自体に問題を抱えている方も多いだろう)

4 総合的なポータルというよりは個々に細分化されたジャンルあるいは地域をカバーする
- テレビやポータルでは人的・経済的リソースを駆使して、膨大なトピックをカバーすることができる。しかしながら、そのほとんどが(少なくとも黎明期は)零細企業であるソーシャルメディアの世界では、それでは個の持ち味が活かせないため競争に勝てない。よって必然的に自分たちが得意な分野で勝負することになる。GIZMODOやTECH CRUNCH、HUFFINGTON POSTなどがその良い例である。

5 即時性が命である
- インターネットが紙に対してすぐれている最大のポイントはスピードだ。そして、同じデジタルメディアのテレビよりも速くネットはニュースを世に伝えることができる。勿論この即時性のために正確性を書くことがあってはいけないのだが。

6 独自の視点と論調が成功のカギを握る

- 限られたチャンネルの中で選択されるテレビの世界とは異なり、ネットの世界では選択肢が膨大である。ここで名前を挙げるためには独自の視点と論調が重要である。あるいは一般的に認知された人物が論を展開するのが分かりやすいが、それはマスメディアの延長であり、ソーシャルメディアのコンセプトとは少し趣を異にする。GIZMODOはその論調や扱うトピックなどで独自の位置を築き上げた良い例だ。

7 独自経済基盤の構築
- 今のところやはり広告が主流になってくるが、そもそもジャーナリズムと広告は相容れない。よって、理想的には課金モデルとなるのだろうが、筆者はこの部分に関しては市場の成熟と共にもっと多様なパターンが出てくるのではないかと考えている。勿論寄付も一つの例であり、ハードウェアのレビューサイトなどでは以前から成立している。テレビショッピングなどはソーシャルメディアとしては効果を発揮する部類なので、ここにも活路があるだろう。(例:Will it Blend?、Wikipedia、Woot

8 情報配信あるいはビジネスをスケーラブルにするための仕組みを工夫する
- 今やテレビでもツイッターのアカウントを紹介したり、ひいてはテレビでSNSの宣伝をしたり、SNSを紹介する映画がでたりするくらいなのだが、ソーシャルメディアサイトではネットで広がりつつある流行のアプリについては極力網羅することで、ユーザーが好む手法でニュースを拡散することを後押しすることが重要である。(テレビは一方通行であり、かつインターネットと同じ空間に存在していないメディアなので、これは実現できない)

ここまで話してきて、気づいた人もいるかも知れないが、「人類の集合知」という壮大なニックネームをもって生まれたソーシャルメディアの雄、ウィキペディアはどういう位置づけにいるのだろうか? 筆者は現在このブログにて「ウィキペディアンの憂鬱」シリーズを連載中(出版社求む 笑)だが、ソーシャルメディアを考えた時にウィキという巨人の存在は外すことはできないものだ。しかし、ウィキには「百科事典」でありたいという目標があり、上記に挙げたソーシャルメディアのいくつかのポイントとは相容れない部分を有している。つまりウィキぺディア自体がソーシャルメディアのジレンマの具体例みたいなものであり、今後ウィキがどういう進化を遂げていくのか、あるいはいかないのかを見守ることはソーシャルメディアの行方を占う上で直結する重要事項だと認識している。この点についてはまた機会を改めたいと思うが、例えばウィキペディアは即時性をどちらかという否定する傾向があるし、執筆者が複数で一つのエントリーを執筆する、あるいは自分の専門分野や関連のある分野について執筆することを奨励していないこと、などが挙げられる。

そして「憂鬱」のテーマは<衆愚>と<無知>である。ネットの世界ではみんなが誰しももっている権利と力があるのだが、これについてよく理解できていないとネットの未来は一般的な総意に基づくものにはなっていかない。ネットの世界は「民主主義」のように見えて、断じてそうではない。権利をよく理解してそれを行使していかないと、自然と「白票」を投じたことになり、アクティヴィストの活動をそのまま支援してしまうことになりかねない。筆者のこの一連のエントリーはそうしたことに対する危惧から書かれたのは確かだ。ネットを普通に使っている人の間にもデジタルデバイドの格差は厳然として存在するし、多言語を介する者とそうでないものが有する情報格差もフラットなネット社会ではどんどん拡大していく。

筆者は「電子出版」と「ソーシャルメディア」は車の両輪だと考えている。双方のバランスがうまくかみ合わないと車は前進していかない。で、ここでいう車というのは「ジャーナリズム」なのかも知れないし「メディア」そのものなのかも知れない。電子出版は膨大なコンテンツを有している大手出版社が様子を見ている間に小さな所からどんどん死んでいくという事態になったが、ソーシャルメディアのコンテンツというのは必ずしも大手メディアが「保有」しているものでないだけに、牙城としては草の根でも崩しやすいはずだ。だからまずはソーシャルメディア革命を起こすことを一ブロガーとして支援していきたいと常々考えている。

これまでは、あとほんの少しと見えていたラスト1マイルが意外に遠いのではないかというように感じられてきた近頃。近い例でぞっとするのは日本人の英語力だ。恐らく日本人の英語力は戦後60年間以上の間それほど成長してこなかったに違いないし、日本の世界における経済的地位を考えた時に相対的にはむしろ低下していると言えるのではないか。
その原因を考えた時に行き着くのは「読み書きはできる」という根拠を誤った自信と「日本語と英語の言語構造学的な大きな違い」に対する正確な認識ができていなかったことにあると思う。敵を知り己を知れば百戦危うからず、とはよく言ったもので、逆だと完敗する他は無いということだ。
電子出版が案の定大手主導の形で落ち着きかけ、大きな可能性がどんどん殺されていっているように、意外とこの壁は越えられそうで越えられない「バカの壁」に近いものなのではないかという思いが募ってきたら、急に誹謗中傷を覚悟で書きたくなった。

というあたりで、一先ずここでエントリーを区切りたい。続きをするかどうかは読者の反響次第ということで(笑)

ソーシャルメディアでは存在意義を確定するのも読者であり、つまり「黙殺」が一番の武器である。これまではマスメディアの最終兵器であったこの「黙殺権」を一般が行使できるようになったのが最大の変革と言えるのかも知れない。先のエントリーで紹介した藤沢氏の勝間和代に対するコメントは、つまりそういうことであったのではなかろうか。「良い」も「悪い」も「無視」も含めてソーシャルメディアの評価であり、書き手はそれを真摯に受け入れるしかない。

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立入 勝義 (Katsuyoshi Tachiiri) 作家・コンサルタント・経営者 株式会社ウエスタンアベニュー代表 一般社団法人 日本大富豪連盟 代表理事 特定非営利活動法人 e場所 理事 日米二重生活。4女の父。在米歴20年以上。 主な著書に「ADHDでよかった」(新潮新書)、「Uber革命の真実」「ソーシャルメディア革命」(ともにDiscover21)など計六冊を上梓。

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